推理する国語(後編
人のやさしさを促すのは、推理する能力であるといった前回。
推理すると前編と中編で言ってきたのはつまり文脈を読みとるということで、それこそが国語力(読解力)を高めようとする国語教育の真髄だと私は思っている。
そうやって私たちはいわば探偵能力を磨いていくのだけれど、ただしである。名探偵に禁物なのは、訓練を繰り返したからこその「思い込み」ではなかったろうか。
与えられた材料だけを頼りに一足飛びに結論までいってしまうという、ある種刷り込みにも似た国語訓練は、人を思い込みという沼にはまりやすくもしてしまうのではないだろうか。
血だまりで人が倒れている。傍で、血塗れのナイフを持った目つきの悪い男がその様子を見下ろしている。
私たちはたった二行の言葉を頼りに、このナイフを持った男を断罪するのかもしれない。ものごとの側面だけを見て、そのひとを攻撃対象として認めるのかもしれない。断片的な文脈から、一足飛びの結論にたどりついたそのときは。
私たちは所詮、文脈を読みとることしかできない。もっと多くの文章が重ねられていけば、結論は違ったものになるかもしれないのに、そのことを忘れてしまうことも少なくない。やさしさも、危うさも、あやふやな読解力に影響されていて、ときどき凶器になりうる。
だから「推理する国語」である国語教育は、結局のところ、自分の推理を疑うことをもっと習慣づけるようなものであってもよいのかもしれないと、けっこう切実にそう思うのである。
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