SNS誹謗中傷論

最近テレビを観ていない私だけれど、テレビ番組に出演していてSNSを中心に誹謗中傷を受けていたらしい方の死亡にまつわる話をしようと思う。

実はいま、この方の名前を一度打って、やっぱり消した。名前を入れなくとも時節柄読めば分かってしまう内容だろうけど。お名前を出さなくても、考えたことは十分いえると踏んだ。

事実をあらいざらい確認したわけではないので、見聞きした内容がある程度真実であると仮定して、つまり不特定多数からの誹謗中傷が心理的苦痛となって自死を選んだということにして話をすすめる。

すぐに同じ言葉を繰り返してうるさいようだけど、いま書いたように「不特定多数からの誹謗中傷が心理的苦痛となって自死を選んだ」という方は他にも何人もいたんじゃないだろうか。そんな話は以前にも聞いたことがありはしないだろうか。もしもこのぼんやりとした記憶があるのであれば、その「ぼんやり」が問題なんだろうと私は思ったのだ。

ぼんやりと同じようなことが繰り返されているってことは、どういうことなんだろう。

報道当初は「SNSで」誹謗中傷を受け、という部分が強調されていたように感じたが、SNSがない時代にも同じようなことがあったなら、それだけの所為でもないだろう。

視聴者の感情を煽るような演出をした番組制作側の責任を問う向きもある。それを擁護する気はない。でも、じゃあ、ドキュメンタリーで考えてみたらどうなるだろう。唾棄すべきタイプの人が現れたとして、演出が加えられていないその人になら中傷はしてよいということになるのか。

まあテレビなんてどれも演出されてるんだから、真に受けるほうがどうかしているという意見もあるかもしれない。では実生活の身近な人に、あるいは通りすがりの人に、もしかしたら政治家の答弁なんかを見て、どれほどの本気度かしらないけれど「死ねばいいのに」と思うことがあったとしよう。それが演出されたものかどうかを考えるだろうか。

だれかの手にかかっていなくても、自分で自分を演出するとかキャラづけしていてその結果誹謗されたとしたら、自己責任ってことになるのか。

曖昧な線引きのなかで、似たようなことを案外だれでもやっているのかもしれない。

そして、真逆をひるがえって見れば、まるきり空想の悪を演じる役者だって同じ地平に立っている。さあ、ここで観客が役者に殺意を持っても、制作の責任となるのか。

やや極端ではあるけど、論理的には破綻していないと思う。

線引きのこんなに曖昧な人間なのに、エンタテインメントが好きだったりするから厄介だ。起伏や厚みが欲しくなる。

人はエンタメを求め、制作は演出を施し、視聴者は感情を煽られ、そういう奇怪なうねりのなかで人が亡くなった。番組を観ていなかった私さえ、遠くても加害者に違いなかったのかもしれない。

さて話を終わらせよう。

ぐるぐると述べてきて結局のところ誰がいちばんタチが悪いか私なりの意見をはっきりさせておくと、それはもう誹謗中傷を散弾銃のように撃ちまくった人たちだ。

彼らは訃報を知り、喜んだんだろうか。

だからといって、漠然と怯えはしても、その人たちを狩り裁くような気持ちは今のところの私にはない。実感が伴わないからだ。亡くなった身内の方は、もっと複雑な、またちがう心持ちだろう。

次に、現実的なことを考えると、誹謗中傷散弾銃傭兵部隊の恰好の狩り場になってしまっているSNSの仕組みをそろそろ見直してくれまいか。ストレスフリーでボーダーレスでインスタントに発言できる世界は、聞こえのいい割に、どうもタガが外れやすい。というのも随分前からいわれている気がするけど。

あとは、もうちょっと距離をとろう。ゼロ距離からの攻撃がありうるうちは、SNSから。結構ストレスの素だし。と私は思うのだけど。

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