昔話で紐解く、日本の差別 第一回~序論:Storyは【百姓に非ざる者たち】を語る~
在りし日、他愛もない会話
「あのさ、▢▢。昔話はどうして作られるのだと思う?」
「『御伽噺』の意味するままでしょ。暇つぶしの遊びだわ」
「えーと……、ホモ・ルーデンスってことかい?」
「勿論。あんた、前に『無駄な遊びこそが、人間を人間足らしめるんだ』って偉そうに講釈してたじゃない」
「そうだっけ?まあ、確かに至言だと思うけど……」
「納得いかない?じゃあ……、『夜闇の恐ろしさから気を紛わしたかった』なんて答えは、どうかしら?」
「ははぁ、それも鋭い解答だ。全く、▢▢は優等生だね」
「何、その物言い。……癇に障るわね。ご高説があるなら、もったいぶらず、いつもの様にひけらかしたらどうなのよ」
「ごめん、ごめん。勿論、僕もホイジンガの解釈には大賛成だよ。けどね、昔話はそれだけじゃない。中には、虐げられた者の已むに已まれぬ訴えがあるんじゃないかって思うのさ。そう……、あれはアンチテーゼから記された歴史じゃないかな?」
「アンチテーゼ?オルタナティブ・ファクトじゃなくって?」
「ニュアンスが近いのはアンチテーゼだね。だって、理知的じゃないか」
「そうかしら?口伝って、そんなに思考力が必要されることじゃないでしょ」
「いいや、違うね。漫然と、伝言ゲームのような口承を繰り返していたら、込められたメッセージを変質させちまうかもしれないだろ?理知的に語り継いで行かないとね。過度に登場人物へ感情移入し過ぎないよう自己抑制して、作り手の意図を深く洞察しなくっちゃ」
「作り手ねぇ、うーん……。まぁ、いいわ。それで?昔話がアンチテーゼって、具体的にどういう意味なの?」
「ほら、歴史って時の権力にとって都合が良いように作られるじゃない?」
「それは……、為政者次第だと思うけど?」
「まあまあ、些細なことに突っかからないでくれよ。……いいかい?虚栄心の強い権力者の意向によって、『ファクトと宣って、堂々と粉飾・虚飾に塗れた正史』が歴史として記されたとき」
「というか、そもそも歴史ってそういう動機で記されるのが大半よね」
「ああ。それでさ、虐げられた当事者もしくは事実との乖離に怒りを抱く者が『フィクションと宣って、事実の記号を巧みに散りばめた外史』たる物語をカウンターとして編む。それは有り得る戦略じゃないかな?」
「荒唐無稽なようで、事実に即した物語を残す……、婉曲的な告発というのね」
「そう!それだよ!そして、その物語に込められた苦悩、憤りを薄々感じ取った民によって伝播され、現代まで伝承されたのが今日の昔話なのさ」
「ふーん。納得できなくもないかな。でも、日本の昔話にそんな昔話があるかしら?事実の記号とかいう大層なものが散りばめられている話ねぇ……」
「あるよ。山ほどあるさ。例えばそう……、猿蟹合戦はどうだい?」
「猿蟹合戦ねぇ。幼稚園の頃に絵本、あと……芥川龍之介のパロディなら読んだわね。でも、あれはシニカルを気取っただけの作品よ」
「そうかい?僕は含蓄に富んでいて面白いと思ったよ。まあ、『大義を掲げ、公然と行った討ち入り話』を唯一の解釈と捉えるのには、疑問を抱くね。……なぁ、▢▢。『事故を装って、秘密裡に行われた仕打ちの内情』と考えたら、話はどう見える?」
「えーと……、『復讐は社会的に許されない。イリーガルな行為である』という社会通念があり、蟹は承知の上で実行したってこと?」
「うん。社会に猿を裁く法がないから、蟹は法外の手で猿を裁いたんだ」
「だとしたら……、『仇討ちは社会悪。道徳的に云々』といった指摘は的外れね。ジャンル分けすると、クライムサスペンスになるかしら」
「そういうこと。蟹が募ったのは、義士ではなく共犯者なんだよ。分かり易く例えるなら……、あれは【アベンジャーズ】じゃなくって【オーシャンズ】なのさ」
「オーシャンズね……、言い得て妙だわ」
「『おお、愚かなる猿よ。おぬしの軽率な振る舞いがシヲマネキ……』と、カニー・オーシャンが……」
「40点」
「赤点か。ちょいと厳し過ぎじゃない?」
「あんたの無駄話に付き合う気無いの。……ということは、【蜂】【臼】がスペシャリストを意味するコードネーム、記号だと言うのね?」
「うん、その通りさ。……おっと、【栗】【牛の糞】を代役にしないでくれよ。【卵】【昆布】じゃ意味を成さないからね」
「【牛の糞】?……【牛の糞】が欠かせないっていうの?」
「ちょっと、▢▢さん。うら若き乙女がクソクソ言うのは、僕ぁ感心しないなぁ」
「あんたが言わせてるんでしょうが!早く答えを言いなさいよ!!」
「……あいたたた。ごめん、ごめん、茶化して悪かったよ。……僕はさ、あれが『持衰』だと思うんだ」
「じさい?……魏志倭人伝に記されている祈祷師のこと?」
「正解。渡航の無事を祈るために、常に蓬頭垢面でいる呪術師さ。垢塗れで体が臭いからコードネーム【牛の糞】って、突飛な連想でもないだろ?」
「まぁ、そうね。……で?その呪術師が何したっての?」
「彼が請け負った仕事は、囲炉裏で火傷、水場で刺傷という【不幸な事故】の連続に見舞われた猿が、「何かおかしい」という疑念を抱かぬよう煙に巻いて、リーサル・トラップである最後の大仕掛けに誘導、足止めする役回りさ」
「『おぬし、凶兆がでておるぞ』とか、『厄除けの御神託を授かった』等と謀るのね」
「うん。『カチカチ山』で、火打石の音を不審に思うタヌキを、口八丁で誤魔化すウサギと似た真似をするんだ」
「ふーん……あ、ちょっと待って。『持衰』って、猿蟹合戦の成立頃にいる?」
「勿論、『持衰』が密かに継承され続けてきたとは思わない。でも、考えてみてくれよ。何時の時代にも呪術師、というか呪いは社会の中に存在し続けてるよね。俗世を離れて悟りを得るため、または神通力をつけるために蓬頭垢面でいる『聖』さんって、どの時代にも居ただろう」
「放浪修行の仏教僧、全国の霊場を巡る山伏とかね。ああ、一理あるかも。……ただ、【牛の糞】って紛う方無く酷い蔑称よね。ちょっと差別的な感じがするわ」
「差別?……うん、差別されていただろうね。日本社会って、複雑な差別形態だもんなぁ……。兎も角、昔話の中に隠された記号を紐解いて行ったら、歴史の闇に埋もれた事実を掘り起こせると思わない?」
「さぁて、どうかしらね」
昔話に記された日本人の【素姓】を探る思索始め
※学術論文の慣例に倣い、敬称略とさせていただく。
当初、私は小説という形で猿蟹合戦の再解釈の構想を練っていた。
ところが、フィクションを肉付けするつもりで探っていた日本の歴史風俗、被差別民のキャラクターが昔話の記号と驚くほど符合する。瓢箪から駒、噓から出た実というか、荒唐無稽だと思っていた昔話に妙なリアリティを感じるのだ。
自分がそう感じた理由の一つに、ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』に感化され、記号学にかぶれていることもあるだろう。しかしそれ以前に、島田荘司の骨太な社会派作品群、また『吉四六さん』のとんち噺や『跡隠し雪』、出雲の日本神話を下敷きに作られた物語に強く魅かれたのが大きな影響だと思う。
それが何かと言えば、心を揺さぶるフィクションの多くが無から生み出されるのではなく、史実の裏打ちを基に創作されているという事だ。アメコミ作家の多くがユダヤ系であり、『スーパーマン』がユダヤの苦難の歴史を反映で創作されたように。
案外、『昔々、あるところに……』という冒頭テンプレは、『これは友達の話なんだけど(と言いつつ、ごく身近で起こった話をする)……』と同じ文脈で使われる言葉だったかもしれないと思うのだ。(実際に言い換えてみると、シュールではあるが違和感は然程ない)
もっとも、この知的コミュニケーションは昨日今日始まったことではなく、昔から行われていたことだ。
語り継がれてきた伝承の中に、先人たちの生活風景や史実の証左を求めてきたのが、今日の民俗学【Folklore】であるのは言うまでもない。
そこで私は思い切って、小説ではなく民俗学の真似事を試みることにした。
なお、筒井功の著書に出会わなければ、この考えは始まらなかった。
参考文献筆頭に『賤民と差別の起源 イチからエタへ』、そして『猿まわし 被差別の民俗学』『漂泊の旅 サンカを追って』『日本の地名 60の謎の地名を追って』を挙げる。
できるだけ要点に絞るつもりでいるが、多くの文量を引用することになるだろう。
お断り
1、筒井功の言葉を借りて。
『被差別民を指すさまざまな呼称をそのまま使い、あからさまな差別語を随所で用いることにご理解いただき寛恕を請いたい』
『「賤民」とは「賤視されていた人びと」の義である』
2、知ったかぶりと無関心が、差別の温床である。
3、無知は恥じねばならないが、卑屈になるべきではない。
百姓社会が生んだ【白姓】差別
残念ながら、差別は人類社会史の中で珍しくない。うんざりするほどのバリエーションで、厭きれるほど同じ真似が繰り返されている。
羅列しようにも限がない。
日本の被差別民に注目するなら、魏志倭人伝などの中国の史書に記された『奴婢』が最も古いだろう。古代日本の主な輸出品は奴婢であったともいわれている。
一般に明確な解を求めるならば、日本の身分差別の起源は大宝元年(701年)に制定された大宝律令だろう。それによって規定された『五色の賤』、官戸・家人・公奴婢・私奴婢・陵戸が、明文化された「賤民」とされている。
ただ、|殯《もがり》の進行役といった葬送に関わる職掌を担っていた『陵戸』は明らかに扱いが異なるが、それ以外の四集団は中国の陰陽五行思想の影響で便宜上分類されたのであって本質的な違いはないと、筒井は言う。
私はその四半世紀前、天武天皇四年(675年)歌女募集の告知の書簡を注目したい。
「所部の百姓の能く歌う男女、及び侏儒・伎人を選びて貢上れ」
百姓とは、もともと『姓を有する階層の人々』の呼称だという。乱暴に言えば、姓を与えられていない者らは全て「賤民」であった。
考え得る「良民」と「賤民」を分けた最もシンプルな理由の一つは、前者『租税(後の租庸調)を割り当てることが適う者たち』に対し、後者『独立した生業を持つ者たち』との税の平等性が担保できないこと。(なお、『独立した生業』とは自給自足の意ではなく、百姓と物々交換することで生計を立てられる生産者の意。紛れもなく、共同社会の成員であっただろう。詳しくは次回で)
その問題は、古代日本の経済が未熟であるが故に生じていたとも言えるが、唐の真似で国を統治していた朝廷の限界は無視できない。
害をもたらす者・役に立たない者を「賤民」としたのではなく、『統治者が采配できない。能力を活かせない』者、即ち『統治者の手に余る』者を「賤民」の枠組みに入れたのだろう。
姓=身分を決められなかったのが根本ならば、
彼らの呼称は【白姓】が相応しいだろう。
昔話は【白姓】を語る?
百姓と【白姓】に注目して仕分けたとき、昔話は【白姓】と思しき人物が登場する話が非常に多いと思う。胸の湧き踊る冒険譚は勿論、人と人外(百姓と【白姓】)が交流する情緒豊かな昔話が山ほどある。
その理由は明らかだろう。差別が存在する一方、【白姓】は百姓社会に欠かせない存在であるということだ。
さて、本題。
私は『猿蟹合戦は、多様な【白姓】が記号的に配されている』という仮説を立て、どのような生業に就いている者が【白姓】で、どのような社会的役割を担っていたか等を分析し、それが伝えている『ある歴史』について言及しようと思う。(全4回)
続けて、【白姓】の大きくかかわる2つの有名な昔話を俎上に挙げる予定でいる。(各1回)
また、番外編として、エドモント・バーグの保守思想に触れる。
民俗学は、人間の理性の限界を悟って、伝承の中にある経験知を保護しようとするバーグの保守思想に通じるところがある。
昨今のデタラメな『自称保守』の跳梁が溢れる中、自分の思想信条の足元を確認するためにも、伝統と迷信・保守の実践について一つ考えたい。
次回、『蟹に加勢した【白姓】たち:多様な日本の被差別職能民』
先ず、【臼】の人物像について言及する。
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