教科化以前の道徳は役に立たなかったのか?

●かつての道徳教科書を思い返して。

 子供の頃の私は教科書が配布されると、先ず道徳の教科書を読んだ。
 それはただ読み物として面白かったからだ。腎臓病の女の子が死んでしまう話から、真珠貝の養殖を成功させようと何十年も試行錯誤を重ねる話まで、フィクション・ノンフィクション拘らずよく読んだ。
 故に、道徳が教科化すると聞いて、パッと頭に浮かんだ話がある。
 それはかつて道徳教科書に掲載されていた話、『バナナはおやつに入りますか?(仮)』だ。

 今では笑いのネタとなってしまっているアレだが、真面目な話、今、各方面で起きている問題とあながち無関係とは言えない、扱いの大変難しい内容である。それは日本の精神風土に深く根ざしたものであり、美徳として読む方もいるだろうが、一歩間違えれば不正を甘んじて受け入れてしまう話である(上を見上げると、一歩どころか二、三歩間違えている事例ばかりのようだが……)。
 タイトルから作者まで、原本をちゃんと探し出すのが一番だとは思うが、残念ながらネットでは完全な情報が探し出せなかった。
 そこで、不肖ながら私がアレンジした現代版を作り、それの論点解説を行なおうと思ったのが今回の発端です。

 哲学者、中島義道先生の著書『〈対話〉のない社会』(サブタイトル:思いやりと優しさが圧殺するもの) を特に参考文献の筆頭として引用する。


 20年前に出版された本だが、中島先生の『 (〈対話〉のある社会が日本に)実現されたらどうしようと心配することは、完全な杞憂である』という予測通り?日本は変わらず、その内容は全く色あせていない。
『〈対話〉を圧殺するこの国の文化にあと数パーセント西洋的な言語観を採用すれば、もっと風通しのよい社会が、弱者の泣き寝入りすることのない社会が、個人が自律しみずからの責任を引き受ける社会が実現するのになあ』に賛同して、是非とも一読を薦める。

 また、さくらももこ先生の『ちびまる子ちゃん』の「まるちゃんは遠足の準備が好き」を参考文献に挙げねばなるまい。
 あれを読めば一目瞭然、限られた予算でおやつを揃える楽しさ、おやつ文化が存分に理解できると思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?