カイロスを逃してしまった姫:少女のまま生き、人間の世界に馴染めず苦しむ。

『いかなる昔話の解釈もその昔話以上にでることはできない』
 マリー=ルイズ・フォン・フランツ


●何故、かぐや姫が幼かったのか

・成長の意味
 昔話において、異常成長は異界から来た者の証であることが多いという。
 類型の代表は桃太郎だ。彼は『桃』の密室から出現する。加えて『川』という境界の象徴があり、急成長を経て異界の力で偉業を成し遂げる。
 対して、竹取物語。かぐや姫は『竹』という密室から現れ、急成長するが、それ以外に異界の力の片鱗を見せること無い。知っての通り、偉業も成すこと無く帰ってしまう。そこが世界各国、数多ある物語に類を見ない独特なところだ。

 では、『かぐや姫の物語』はどうだろうか?
 姫の力の証としての異常成長は無かったと思う。そう私が思うのは、『かぐや姫の物語』において、姫の成長の前には明確なきっかけが描かれているからだ。育児過程での竹取のおきなとの触れ合いであったり、捨丸との出会いであったり……、
 体験:心の栄養が与えられると、姫は成長するという法則が提示されている。

 それは映画キャッチである『姫の犯した罪と罰』を考えると、なかなか面白い仕掛けである。
 『願望の成就』が『刑期短縮に繋がる』、姫が楽しい時間を過ごせば、地球滞在が短くなる。時間論で嘆きと共に語られる、『楽しい時間は早く過ぎる』ということか。
 しかし、物語が進行すると、その仕掛けの本当に残酷なところはむしろ逆にあることに気が付く。意地が悪い仕掛けである。即ち、『心の栄養を得られるような生き方をしないと、永遠に刑が続く』ということだ。

・疾走シーン後、果たして姫は成長したか?
 映像の美しさが絶賛されている、かの疾走シーンを注目してもらいたい。
 値踏みしてくる都の貴族達……、『人間社会』にショックを受けて、姫は外へ飛び出し駆けて行ってしまうシーンだ。(髪がほどける。あのシーンの素晴らしさたるや!!)
 私はこのシーンがきっかけとなって、姫が美しい女性に成長する(ややもすると、達観した女性になるかも)と思ったが……、驚いた。夢オチ!?
 視聴者には強烈なターニングポイントだと印象付けているのは間違いない。しかし、姫に成長は見られない。これはどういうことか?

 その後、お歯黒のエピソードを見て、「ああ……」と嘆息。
 『してやったり』と悪戯っぽい表情を浮かべる姫……、あれは最悪の状況ではないか。
 あれを天真爛漫な姿だと見逃してはならない。姫の精神は幼いまま、絶望的にKYな子供のままなのだ。

 人間としての感動、姫の吸収できる心の栄養が、そこには無い。心の栄養を与える者(尊敬対象)が絶対必要だが、都にはいないのだ。
 少々踏み込んで想像を膨らませて考えるならば、あの疾走シーン以後、物語内の姫の肉体年齢は、実年齢を反映してないのではないかと思う。仮に、彼女の肉体年齢が岡島タエ子と同じ27歳でも(さらに上の歳であっても)物語は破綻しない。むしろ現代にぴったりだと思う。
 そうならなかったのは、精神的に成長してないから。内面の成長が無いので、意図的に少女の容姿に仕組まれているのだ。翁に従ってしまった姫の姿は、思春期の手前の状態で固定されている(未分化な子供のまま)。


●【カイロスを遠ざけられてしまう思春期】
 子供を未分化の状態に縛る親のアニマ

・訪れの時、カイロス
 河合隼雄先生は『時』について以下のように語る。

『時計によって計測し得る時間としてのクロノスと、時計の針に関係なく、心のなかで成就される時としてのカイロスとを区別しなければならない』
 河合隼雄『昔話の深層』第六章『思春期』「いばら姫」

 思春期おける性徴を『身体・心・知識』の3つに分けて考えよう。
 望もうとも望まざるとも、時と共に現れるのは身体の性徴だ。身体はクロノスの支配下である。
 比べて、心の性徴はじっと待っていても訪れるとは限らない。それを齎す時、機会がカイロスだ。

 「いばら姫」は百年の眠りによってカイロスを待つが、現実の人間はそう行かない。
 心の性徴が遅い子、言い換えればマイペースな子は存外多いと思う。
 「女は早熟」などと言われるが、さくらももこ先生など『同世代の女の子の恋話についていけなかった』と語る女性エッセイストは案外多いと思う。どうも見逃されがちのようだが、心の性徴には性差以上にダイナミックな個人差があると思う。
 特に女性は男性と比べて身体の性徴、クロノスが早く顕著である分、心・知識との間にギャップが生じるので、不安定な思春期に陥り易いと思う。

 また、我が子を思うが故の過保護、過干渉が更に思春期を捻じ曲げる可能性があるという。

『娘が否定的な母親コンプレックスをもつとき、そこには二つの危険な方向が存在する。ひとつは、母親から早く離れたい気持が強すぎるため、男性との関係が生じるのが早く(中略)他方、母親に否定的なコンプレックスを持つあまり、娘は母になることをおそれ、自らの女性性をさえ否定しようとする
 河合隼雄『昔話の深層』

 『かぐや姫の物語』において、姫は後者であろう。
 注意しなくてはならないのが、『かぐや姫の物語』における母親とは、おうなではなく、翁のアニマだということ。翁の干渉によって、姫はカイロスを遠ざけられる。
ユングは、その発見について『経験的に生じてきた』と言う。女性的心理傾向が人格化されたものをアニマと呼ぶ。男性的心理傾向が人格化されたものをアニムスと呼ぶ。

 勿論、語る者が少ないだけで、男の子も同様にカイロスを待っている心があると思う。
 しかし、女の子とは社会の物差し、クロノスが大きく違う。繊細な男の子を除いて、同世代の女の子に周回遅れで置いていかれても、大多数は子供のままでいても社会に許容されるので、あまり表面化しない。

【コラム】社会がコントロールできる性徴
 それは知識だけだと思う。
 しかし、現代日本教育状況を振り返って見て欲しい。カイロスをコントロールしたいという親の願望が、社会の願望が、知識の遮断という的外れな行動を招いてはないだろうか?
 私は知識偏重な子供だった。分からなくて不安だったので図書室で自主的に調べることが多かったが、心の性徴はかなり遅れていて、身体とのギャップで傷つくこともあった。一方、周囲には心の性徴は早いが、知識の性徴に欠いたがために痛い目に遭ったという話をよく聞いた。

 性教育消極派は『余計な知識が劣情を掻き立てる』と言うが、劣情を掻き立てるのはむしろ『なぞ』、知識が満たされないことの方ではないか?
 バランスが重要だと思う、現在日本の子供の発達において、心の危機に注意を払うのは勿論必要だが、知識を補うことははるかに簡単かつ有用だと思う。

・カイロスを逃したことに後悔する姫
 作中には心理療法として非常に有名な箱庭が登場し、姫はかなり象徴的な行動をとる。
 ここには明確なメッセージがあるのではないか?

『ペルソナが強くなりすぎてアニマを抑圧している人は、社会にはうまく適応していたとしても、自分の存在の根本が危ういことを感じさせられる』
 河合隼雄『昔話の深層』第九章『男性の心の中の女性』「なぞ」

 お行儀よく箱庭遊びしていた姫が、ある日『私は偽物だ』と言って箱庭を破壊する。
 『大人になれば解かるから、今は黙って従いなさい』を信じて素直に生きてきたものの、いざ大人を迎えると、自分の歩み、思い出の全てが無価値、徒労、無駄にしか感じられない。『自分の中のアニマは余りに未熟ではないか?』などと、己のアイデンティティに不安を覚えるのだ。
 翁のアニマに従ってやり過ごしてしまった子供時代、その中に己のアニマを啓くカイロスがあったのだと気付き、『ああ、全くの間違いだった。あれは嘘だった』と絶望する。
 「自らの選択の結果の失敗」と『他人に従った結果の失敗』、「自らの選択の結果の成功」と『他人に従った結果の成功』、そこにあったカイロスの重みに気が付くのだ。

 勿論、『かぐや姫の物語』は女性に限った物語ではない。普遍的な親子関係を扱った作品だと思う。
 姫は性に結びついた自己認識を齎すカイロスを逃したまま、周囲の意見に流されてゆく……、あれは逆説的に思春期と真っ向から向き合っている作品ではないか?


●原典を踏襲する2つの展開は何を意味するか?

 「竹取物語と同じ」「オリジナルの展開が無くてガッカリした」そう言う人は多いかと思う。しかし、場面場面に現代社会の病の暗喩が現れはしないか?

・月への帰還
 『何故還るのか?(当人の都合)』から『何故押し留めようとするのか?(周囲の都合)』へ着眼点を転換して考えると、地獄の構図がそこに見出せる。

 うつ病、不登校といった『居場所が無い』者へ、つい『そのままで将来どうするんだ?』と言ってしまう人にこそ考えてもらいたい。
 それらの問題は根本原因が多岐に亘るので、『こうしたら絶対良い』という答えは無い。
 とは言え、無難でよく言われるのは『改善したいという思いで、患者は環境を大きく変えたがり、それは退学・退職といった人間関係の切り離しに向かい易い。そのような行動は失敗時のダメージが大きすぎる』ので、対応策として『先ず休学・休職を勧めて、暫く冷静に考えさせた方が良い』というもの。

 確かにそうだと頷く人もいるだろうが、事情次第では地獄が長引くだけに終わる。
 例えば、『職場でのハラスメントの結果、うつ病になった』場合、その職場がハラスメント認知、撲滅に消極的『そもそも改善する気が無い』なら、去る以外に選択肢は無い。
 『(今の)居場所が無い』者へ、未来を語っても追い詰めるだけだ。
 論点が時間的にずれているのだから、全く議論にならない。相手を苦しませるだけである。先ずは、今の事を聴くより他無い。

 改めて月への帰還のシーンを考えて欲しい。
 姫が留まる積極的な理由は明らか無い。もはや何も得られないのだから。
 それなのに、翁・帝は「姫のためだ」と大義を主張して、月の使者を撃退しようとする。何故、押し留めて『その場をやり過ごせば上手く行く』と思ってしまうのか。
 あえて指摘しよう、『我慢強い姫』の『我慢』を待っているから。
 そこには『己の瑕疵、責任』から、現状から必死に目を背けようとする、せせこましい自己保身しか見えない。

・天女の羽衣の役割

【衣着せつる人は、心異になるなりといふ】
【翁を、「いとおしく、かなし」とおぼしつる事も失せぬ】
【此衣着つる人は、物思ひなく成にけれ】
岩波書店 新日本古典文学大系 17 竹取物語より引用

 上記は、竹取物語における天女の羽衣について言及部分だ。重ね重ねで記し、その「記憶・情を消す」効能を強調している。

 藤津亮太氏がラジオで、高畑監督の初期作品『太陽の王子ホルスの大冒険』のクライマックス直前、迷いの森の霧が晴れるシーンの意味を「アイデンティティの確立を表わすシーン」だと解説していた。

 『かぐや姫の物語』において天女の羽衣を羽織るシーンは果たしてどうだろう。全く対照的なシーンではないだろうか?

 私は、姫の心が霧に沈んで霞んでいくように思える。
 「この世界に自分の居場所が無いのでは?」と思い悩んだ姫が、アイデンティティ・クライシスを迎えて、心を閉じてしまうシーンに見える。

 主人公がラストで心を閉ざしてしまうストーリーだとすると、高畑監督は現代日本の親にとって非常にきつい作品を作ったことになる。果たして、我々が受け止めるべきメッセージは何だろうか?

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