「人生の正解」を探してしまう、きみへ
最初に説明させて。
タイトルに「きみへ」なんてつけちゃったけど、これは過去のじぶんのこと。
ちょっとエモく言うと、「拝啓 十五の君へ」みたいなもんだ。
(この曲は未来への手紙で、わたしは過去に向かって書いているので根本的には違う)
ある程度年齢を重ねて、万人に共通する「ふつうの生活」なんてありえないし、何を「人生の正解」とするかはじぶん次第だなぁと実感するようになってきた。
今なら
何が正解かは誰かが決めるものじゃない。じぶん自身で「正解にする」んだ!!
なんてかっこつけたこと言えるけど、十代の頃は「正解ってなに?」と迷走する日々を送っていた。
少し長くなるけど、その頃のわたしを紹介します。
そして、正解ばかりを求めていたわたしが、なぜ今このnoteを綴っているのかをお話しするね。
拝啓 一五のわたしへ
高校生のわたしは「朝ごはん 正しい」みたいなワードをスマホでピコピコ検索していた。今考えると笑える。でも当時は笑えない。
わたしは幼少期から食が細くて、疲労が溜まると食事を十分に取ることができないタイプだった。
特に朝はまったく食欲がわかなくて、無理をしてパンを口にすれば、すぐさま吐いちゃってそのまま学校を休んだ日もある。これは小学校低学年の頃のはなし。
食欲を上手くコントロールできないまま、わたしは中学、高校へと進学した。
食が細いことで生活に支障が出ていなければ「朝ごはん 正しい」なんて検索していなかったと思う。
当時はかなりツラかった。続けたいと思っていた部活が続けられなかった。実は通学さえも困難な時期もあった。
高校1年の頃、わたしは運動部に所属していた。
月日が経つにつれて練習量は増えていき、部活が終わって帰宅する頃にはいつも疲労困憊で、全く食欲がわかなくなっていた。友だちは「毎日ごはんを食べすぎちゃう」なんてボヤいていたけど、それが不思議だった。
疲れすぎてて、何かを無理やり口の中に詰め込む気力は残っていなかったし、頭の片隅では子どもの頃に無理やり口にしたパンのことがフラッシュバックしていた。
そんな生活を続けていれば当然だけど、徐々にプレー中の判断が上手くいかなくなり、体力がもたず、ケガをして、さらには体調を崩して入院までした。
ここで気がつけばよかったけど、当時のわたしは察しが悪かった。退院後も身体は悲鳴を上げていたはずなのに、ずっと聞こえないフリをして同じような生活を送っていた。
親からは部活を辞めるように言われたけど、維持を張ってプレーヤーからマネージャーに転向した。他のみんなと同じようにできないじぶんがものすごく嫌だった。
そのまま無理をするうちに、わたしは登校時間までに起き上がって準備をすることができなくなっていた。毎日最悪の気分だった。ちゃんと登校できないうえに、部活にも満足に参加できない。出席できなかった授業がそこまで成績に響かなかったことだけが幸いだった。
クラスメイトやチームメイトがキラキラして見えて、すごくうらやましかった。
みんながどんな生活をしているのかが不思議になって、みんなの口からこぼれ落ちるワードを貪るように話を聞いていた。
そこで気がついた。どうやら元気な人たちはちゃんと「朝ごはん」を食べているらしい。
早速持っていたスマホでiモードを開いて「朝ごはん 正しい」を検索した。
思い起こせば、当時のわたしは、じぶんと他人とに違いがあることを見つけると必ずといって良いほど「●● 正しい」と検索していた気がする。
でも、満足のいく答えを得られたことは一度もなかった。
…
年を経て、わたしは管理栄養士になった。
いまはもう「朝ごはん 正しい」と検索する必要はなくなったけど、「正しい朝ごはんの答え」を見つけたわけじゃない。
残念だけど、ふえた知識の量が「朝ごはん 正しい」の正解に結びつくことはなかった。
心のどこかでは、正解らしい正解は存在しないんじゃないかなんて思ってる。ひとによっても様々だし、日によっても様々だから。
正解は見つからなかったけど、その代わりに「そういえば最近わりとゴキゲンだな」とか、「最近体調がいいな」と感じる日が増えてきた。
どうやらもう、正解探しの暗闇にいなくていいらしい。
いまのわたしは「ゴキゲンならそれで正解」ってことになっている。
そろそろ本題に戻ろう。
拝啓、十五のわたしへ。
今、すごく苦しいよね。
どうしてじぶんはほかの人と違うのか、何が間違っていたのか、悶々と悩む日が続いているよね。
何かにつけて、間違い探しをしていたよね。
そんなわたしの心が、少しでも軽くなればと思って、この手紙を書くことにしました。
まず、わたしの人生は何も間違っていないし、みんなと違って当たり前だよ。
ほら、わたしって、みんなと同じものを持ちたがらないタイプじゃない?だから、正解っぽい「みんなと同じこと」をしてもきっと納得しないはず。笑
そして「何が正解か」を探すんじゃなくて、「正解の定義とは?」を考えてみよっか。
これが一番大事。
まずは「こうなったら正解」っていうゴール地点を探そう。
わたしはどうなりたい?ゴキゲンでいれそうな状態ってどんな感じ?
あんな風になりたいなって、うらやましくなっちゃう人が思い浮かぶかな?
それってどういうことなんだろう。じぶんにしっくりくる言葉で具体的に説明してみよっか。
ゴールは決まった?じゃあ次はスタート地点を確認しよう。
今のじぶんはどうかな。満足してる?不満に思うところはある?恥ずかしがる必要はないからね。素直にぽんって出てきた言葉を集めてみよう。
最後に、ゴールからスタート地点を逆算してみよう。
さっきイメージした、なりたいじぶんがいるじゃない?そうなっている時の条件ってなんだろう?
ゴール地点とその条件は、イメージが頭にぽんって浮かびやすい言葉にするといいよ。
いまのわたしは、その条件をどれくらいクリアしてるかな?
あんまりクリアできてない?そしたら、ゴール地点をちょっとだけ、いまのじぶんによせてみよっか。許せる範囲でいいよ。
そしたらどう?その時の条件はなに?それはクリアできてそう?
まだクリアできてないかぁ。じゃあもう少しだけ、いまの自分に近づこう。
ちょっとずつゴールからいまのじぶんに近づけて、ぴったりいまのじぶんにくっつくところまでいってみよう。
そこまでいったら、今度は逆にスタートからゴールを眺めてみて。
それが、ひとまず今の、わたしの正解ルートだよ。
どうかな、「何が正解か」を探すよりもワクワクしない?たぶん正解を探すんじゃなくて、正解をつくる方が楽しいよ。
何か違うな、と思ったら、いつでも軌道修正してOKだからね。
苦しくなったら、じぶんがハッピーでいれそうなゴールをイメージしてみて。正解はじぶんで決めちゃおう。
そしてそこに近づくためのステップを考えてみて。
あなたの人生がいまよりもハッピーになりますように。
三十代のわたしより
------------------
わたしは十代から今までの間に、ほんとうにさんざん、人生の正解を探しまわっていました。
おかげで、世の中には人生の正解なんてころがっていないということに気がついたの。
今だって心のどこかで「これって正解なのかな?」みたいに考えてしまうわたしがいなくなったわけではないみたい。
影は薄くなったけど、一五の頃のわたしが、今もたまに顔を出すんだ。
でもきっと大丈夫。わたしの人生は間違ってないし、正解はつくれる。
------------------
なんでこんなnoteを書いたのかと言うと、実は先月35になりまして。
二〇代の後半くらいから、誕生日はじぶんの生誕を祝うと言うよりも、出会った方々に感謝する日にしていたんだけど、今年はちょっと別のこともしてみたくて。
いろいろとアイディアをめぐらせていたら、なんとなく十五の頃のしんどかったじぶんのことを思い出しまして。
ちょっとここらで、今まで生きてきたじぶんへの感謝?も込めて手紙を書いてみるのもいいのかな、と。
昔のわたしのように苦しんでいる子が、もしかしたらいるんだろうな…、なんてこともぼんやり考えてて、わたしの経験を参考?に、その子たちの心が少しでも軽くなったらいいな、なんてね。
ちょっと背伸びしたことをやってみました。
ほんとは誕生日にアップするつもりが、書き上げるのに時間かかっちゃった。
オフラインもオンラインも含め、この35年でわたしという人間に出会い、関わってくれたみなさまに感謝。ほんとうにありがとう。
そしてわたし、いままでありがとう。これからもどうぞよろしくね。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?