スタディサプリ 小論文講座60本収録ノック終了
ということで、6月から続いたスタディサプリの小論文講座の講義の収録がおおよそ終わりました。
あとは「はじめに」を撮影するだけです。
収録終了後、とあるきっかけで「国語は、人間力。」というフレーズに触れ、ちょっと考えてしまいました。
教育の世界では「生き抜く人を育てる」「飯を食う人を育てる」という感じで語っていく方々がいますが…
私の感覚は、もっと軽やかというか、そういう話だけでもないんですよね。
こういう文言って、少し脅迫的(失礼!)というか、受け取った側を抑圧的にさせるし、ということは何かの支配構造があるということを暗示させますね。
私は縁があって国語の領域にいますが、そもそも国語をやっている感覚はないんです。
国語じゃないけど国語、国語だけど国語じゃない。
そういう包容力があるのが国語の領域の魅力なのかな、と思っています。
自分の生き方も、クリエイティビティも、それこそ世界の中の傷や分断も、成長物語も、何もかも含む。
そういう豊かな地平が広がっているのが、国語の世界という理解です。
一方、それを「受験」「成績」「教科書」という区切り、「偏差値」を追って視野を狭めています。
受験生やその親御さんや教師からその姿を見取ることがあり、残念に思うことがあります。
その先の世界や自己の広さと豊かさを閉じていく。
そういう姿が、私には国語という領域のもつ「軽やかさ」とか、「広がり」とか、「深さ」を閉じていくように思う瞬間があって、残念だなぁと思うんですよね。
日本の中でサバイブするには仕方がないのだけれど、私が学校教育や受験の世界でおかしいと思っているのはそれを助長する点だし、それを早い段階から進めてしまうことなんです(心ある先生もいるので、全員とはいいません)。
そして、そういう閉じた受験の世界を作り上げてしまうのが教育産業の姿に見えてしまうんです。
私はその世界のど真ん中にいて、その一角にいるわけだし、日本の中では名が通っていると自覚するので、自己撞着ではあるんです。
ただ、そういう世界をつくりたいわけではないし、そんなのいやだな、そうでない生き方在り方でありたいというのが私の思いです。
同じ世界の上に立つ中で、集合と離散を繰り返しながら、自分のプロダクトから学んだり、それをだれかがつかってクリエイティビティを発揮したり、他者との対話、自己との思索が織りあいながら世界をつくったりすることが、学びの醍醐味なのではないかなぁ、と思うわけです。
他方、学びに対してニヒリズムを抱く人々や、そういう人が広げる空気や、それが充満する学校や学び場は、素敵な空間ではないな、と思います。
私が関わる学びの場が豊かになることを祈っています。
スタディサプリはそういう願いを広げるための道具立てです。
引き続き応援をよろしくお願いいたします。
弊社では、次年度に向けて総合型選抜対策講座、総合的な探究の時間のプロデュースをはじめ、高校向けの展開を強化しております。
私自身が関われる学校数が限られることから、ご興味がございましたら、お早めにお問い合わせください。ご提案に伺えると思います。
思いを同じくする学校の皆様と、ともに歩みたいと思っております。
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