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総探の時間の所感

今日は某高校の総探の時間の訪問。私は迷える子羊と対話をし、軌道修正する役割。

ある生徒との対話。「自分が興味ある探究テーマを決めたのに担任にダメと言われた」、それは調べれば出てくる問いだから、とのこと。そんなことあるのかなと疑問に思いながら話を聞いていると、ボタンの掛け違えの様子。

担任側は「本当にその探究をしたいのか?」という疑問を抱いていたようで、問いをクリティークしたみたい。大人から見ると先が見えてしまうようなものだったということらしい(調べて、ハイお終い探究)。

これには本人には本人で言い分があるとのこと。その生徒が目指している進路はゴリゴリの理系の分野。そのテーマだと、論文を読んでも意味不明だし、用語を調べてもまだ分からないし、知識が足りなさ過ぎて太刀打ちできないから、探究の発表会に間に合いそうな手軽なテーマにしたとのこと(これは進路と探究が結びつかない要因の一つかもしれませんね)。

その背景には「成果物をきっちり仕上げなければならない」という空気感(というか思い込み)があったそうです。仮説を立てて、結論まで出ないと発表できない。そういう心中だったそうです。

だから「探究はつまらない」。自分の思い通りにならない。グループでの探究ではいつに間にか自分の意見が消されるし、そもそも探究に意味があるのか、ということでした。

そして、学校が勉強の場であれば、探究は無駄な時間でしかないという感覚もありそうです。どうもその生徒の第一志望は超難関国立大。iPadケースの裏側に志望校の校章を忍ばせていました。成績も使われない、自分の思い通りにならない時間は無駄だけど、必修だからやらざるを得ないから仕方なく、というところも大きい。

その問いに対して、担当の先生の返答が素晴らしかったです。「探究や研究はどれも未完なのではないか。それをしているのが大学というところ。何でも結論まで出るものでもないから、どこまで自分は結論まで近づいたのかを示せば良いのでは?」完成した見栄えのよい探究を理想とすると、こういう返答はできないなぁと思いました。

私からは「元々のテーマでも十分探究できると思う。ただ、せっかくならその歴史的な経緯や意義を探ってみてはどうだろう。探究する対象をリスペクトし、丁寧に観察することはとても大事だと思う。それなしに探究すると、表層的なもので終わってしまいそうな気がする」と話しました。アクションが先行して永続的な取り組みにならない「お祭り探究」をよくみているので、ついこういう話をしてしまいます。

ついでに言うと、個人的には探究は常に楽しいものでもないよな、と思うのですよね。興味関心から出発することもあれば、世界の傷に向き合うことからも始まるし、課題解決からもあり得るし、より良くしたいという思いから生まれることもある。色々な出発点(というか経験と状況の交差点)があるのだから、そこに正の感情が常にあるわけでもない。探究は常にお花畑なわけではないのですよね。のめり込むとか、夢中になる、とか、そういう軸で探究を眺めると、肝心なことが見えなくなるなぁと感じます。

それにしても、大人の都合で探究が動かすのは学校だから仕方がないにしても、こういう現実にどう手当すべきなのだろうかと、こういう高校生を生んでしまっている現実を目の前にして、担当の先生と頭を抱えてしまいました。

写真は先ほど入れたコーヒー。今日の対話が果たしてどう伝わったのかは本人次第ですが、総探の世界をこうしたくなかったのにな、とほろ苦く感じました。

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