思考コードについて、思考を整理する
今日は思考コード、関連してブルームの認知タキソノミーの話をしようと思います。
思考コード開発の重要人物である本間勇人氏(私立学校研究家・聖パウロ学園校長)とリフレクションをしたのもあり、私がどういう理解をしているのかを整理するために、記録として記してみます。
2015年前後から、東京の私立学校や模擬試験会社である首都圏模試センターで「思考コード」という指標を用いて教育活動を行うという動きがあります。
ちなみに、首都圏模試センターの思考コードと、例えば聖学院中学校・高等学校、工学院大学附属中学校・高等学校、静岡聖光学院中学校・高等学校、和洋九段女子中学校・高等学校をはじめとした21世紀型教育機構(21st CEO)加盟校の思考コードは、少し趣が異なります。
つまり、
ということです。
首都圏模試センターの思考コードはブルームの改訂版タキソノミーの認知的領域「のみ」をもとにつくられています。
理由はシンプルで、首都圏模試センターは「模擬試験会社」なので、試験問題の分析のために取り扱うという事情があったからです。
そもそもブルームがタキソノミーをつくったのは「大学のテスト項目の分類を主たる目的で開発されたという経緯があるから、親和性が高いというわけです。
ちなみに、文部科学省が掲げる学力の三要素である「知識・技能」「思考力・判断力・表現力」「学びに向かう力・人間性等」はそれぞれブルームの認知のタキソノミーのアナロジーと言って差し支えないと思われます。
ここまでの話を整理すると、以下の通りです。
このあたりは以下のサイトをもとに、思考コードや改訂版タキソノミーをベースに、文部科学省における議論を照合して整理してみたものです。
細かいところの差異はあるかとは思いますが、おおよそこのような話だと理解しています。
なお、ブルームは認知心理学者ですので、ピアジェを通過しています。
ピアジェの発達段階理論と照らし合わせると、ブルームの「認知の」改訂版タキソノミーがアナロジーしている様子がわかると思います。
一方、21世紀教育機構加盟校の思考コードは、学校における教育活動の指針として用います。
それは首都圏模試センターの思考コードのように「認知の」タキソノミーだけでは不足するからです。
認知・情動・精神運動、乱暴にいえば「あたま」「こころ」「からだ」全てが絡み合うのが人間としての活動だし、生き方であるということ。
だから、横軸は認知のタキソノミーでよいのだけれど、縦軸は「情動」「精神運動」、そして「人としてどう生きるべきか」という倫理コードを埋め込んでいます。
基本的には
という位置付けです。
ただし、各校ともにアレンジをしています。
例えば工学院大学附属中学校・高等学校の思考コードは縦軸と横軸が逆転しているし、知識理解思考と論理的思考を思い切ってA軸にまとめ、創造的思考の中の「批判的思考(過去から現在にかけて積み上げられてきた知は本当にこれからの世界にとって重要な役割を担っているのか、と問うこと)」と「創造的思考(どうすれば自らの才能を世界づくりに役立てられるのか、アクションを起こせば良いのか、起こしたか)」とを切り分け、それぞれをB軸・C軸と置いています。
※ただし、これは2017年のもので、毎年思考コードのあり方を検討・修正しています。今は多分変わっているかと思います。
一方、静岡聖光学院中学校・高等学校は「世の光・知の塩」という世界観をどう思考コードに埋め込みました。
思考コード自体は21世紀型教育機構の標準的なものですが、A軸を「鍛錬」、B軸を「理知・探求」、C軸を「叡智」と意味づけしながら、教育活動を行なっています。
ちなみに、最近以下の記事が拡散していますが、私の理解で読み解くと、上記の2つの意味の思考コードが混在している様子が伺えます。
さて、ようやく本題。
基礎学力のコペルニクス的転回という記事です。
私の理解では
ということです。
A1-A2-B1-B2は情報収集すれば載っていることばかりだから、21世紀型教育を推進する側からすると、そもそも「A1-A2-B1-B2を習得することが基礎学力だ」と主張することにどれだけの価値があるのかと問いたくなるということです。
ピアジェがこういう教育観で中等教育をやっている人々を見たら「もう形式的操作期なのに、いつまでその前段階やってるの?」って突っ込んできそうですね。
翻訳すれば、C軸やらずにずっとA軸B軸やっててどうするの?ということ。
集団授業でA1-A2-B1-B2をやると、往復運動がこの領域の中で留まってしまうんですよね。しかもそれで今までの教育実践はそこまででよかった。
だからA3-B3-C1-C2-C3にはみ出ることを避けるし、そもそも知らないし、教育実践を踏襲してもその枠は出られないんですよね。
私はA1-A2-B1-B2から順に外側にはみ出ようとするストーリー、つまり「習得→活用→探究」という段階を踏む流れは否定も肯定もしないんです(経験的にはうまくいかないだろうなと思うんですけど)。
ただ、そもそもその順序になるとは限らないなと。
だから、教科書はよいのだけれど、それをそのまま指導書の通りに扱っていくと習得させるところから離れられないんですよね。
教科書や指導書のようにシステマティックに授業するツールに対する疑問を抱くのは、ここなんです。
コペ転したときの想定の細やかさは、他のファクターがなければ指導者側でコントロールする必要はあんまりないのかもしれません。
学び手が情報収集するときの支援やリテラシーの欠如への対処やリスク管理のほうが大事かも。
もしA1-A2-B1-B2への往復に対する細やかさが求められると想定した場合、「教科書範囲を終わらせなければならない」「受験まで間に合わない」というところが大きいと思います。
知を一方的に吸収し、自己完結で終わるのは、世界をつくらないなぁと思います。
ここで、この記事。
「A3B3C3が基礎学力になる」ここが、今ひとつ分かりづらいのかな、と。
そもそも「学力」って何だ、という問いからですね。
日本の今までの教育観だと、三観点でいうところの「知識・技能(主にA軸)」の習得が基礎学力にあたるというイメージから出発していますね。
それをもとに追って「思判表(主にB軸)」が足されて…というところですね。
しかも、その「知識・技能」「思判表」は「自己の(レベル1)」学力向上のため、「グループでの(レベル2)」学習活動のために行われるという現実があるんです。
だから、
だと理解しています。
これをもっと乱暴に言えば、
「自分のために学ぶ(個人のパフォーマンスを重視する学力観)」のか「世界や未来のために学ぶ(他者との協働によるパフォーマンスを重視する学力観)」のか、ということなのかなと思います。
後者は「自分は何者でありたいのか」ということを問われ続ける営みです。
前者の教育観が強い日本で「自分は何者かが問われない」のは当然かなと。
ちなみに、学力を英語で訳すとacademic ability(学術のための能力)。knowledgeではないんです(だから知識偏重の教育が否定されるのは、こういう感覚を持っている方に多いのではないかなと推測します)。
では、何のための学術なのか、能力なのか、ということが問われるわけです。
それらの能力を鍛えられる教育環境で育った高度外国人人材が日本にやってきたときに、そうした人々にその子たちが使われてしまうという絵面が想像できます…考えすぎなのかもしれませんが。
教育基本法の前文に教育の目的が示されていますが、「世界の平和」「人類の福祉の向上」と示されているということを、常に教育活動の中で参照することが大事なのだと思います。
教育を通してこういう世界観を伝えることが、我々の使命だと思っています。
大きな大きな目標となるので、光が見えては消え、見えては消え、の繰り返しだし、どれが答えかわからない中での模索になるのですが、それこそが「答えのない問い」であるのだなと身に染みています。
予備校講師や塾経営者や学校コンサルティングというやや俗世間寄りの立場ではあるのですが、こういう思いは忘れないように日々生きていこうと思います。
本年も皆様方のご支援に心から御礼を申し上げます。
良いお年をお迎えください。
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