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PBLで大事なのはDriving QuestionsではなくQuestioning the Drive

久しぶりにぼやいてみます。

私の塾が最近活気付いてきまして、高3生少人数制クラスが満員御礼状態になりました。
これ以上増えたら、クラス増設を検討します。

さて、方々の高校の生徒から総合的な探究の時間やPBLの話を聞くことがよくありますが、結構辛辣なことを言うんですよ。

「『海洋ゴミを拾うためのロボットを創造せよ』というテーマだったけど、想像してプレゼンするだけで、形にもならないし、実現もしないことをやってて、何のためにやらされてるのか全然意味不明」
「『SDGsの項目を3つ選んでプロジェクトを企画せよ』って言っても、やらない生徒は全然やる気ないし、成績さえ良ければいいからって言っている」

想像はついたけど、少し心配になりました…

GRITが大事とよく言われますが、クルト・レヴィンが場=f(人,環境)というように、学びの場は人と環境の関数で成り立っています。
そういう眼差しでGRITを眺めると、人の要素にフォーカスしてしまい環境要因を置いて行きぼりにする方がおられそう。

Guts(度胸):困難なことに立ち向かう
Resilience(復元力):失敗しても諦めずに続ける
Initiative(自発性):自分で目標を見据える
Tenacity(執念):最後までやり遂げる

困難に立ち向かうために教師はどういうマインドセットをすべきか?
失敗しても諦めずに続けるための授業設計や生徒との関わり方は?
自分「たち」で目標を見据える支援をどうすべきか?
「最後までやり遂げる」の「最後」は何で、どうサスティナブルな活動にする働きかけをするのか?

ただテーマを与えて探究のサイクルに乗せる(ことに近い運用)だけでは高校生にすでにこちらのあり様を見透かされているという前提で、導入から、都度の声掛けやレクチャー、進捗の管理、成果物の評価、生徒と教師の評価の擦り合わせを丹念に行うことが大事だと思います。

最も大事なのは丁寧な導入と、その内容を都度繰り返すことだと、最近は感じています。

いま聖学院GICの生徒たちは、私の「リベラルアーツ(「現代の国語」の読み替え)」でジェンダー不平等の現状理解と解決の方策を練っています。

この場で私は繰り返しこう言っています。

成績を良くするため、というのは、そもそも学びの本質ではない。自分とは交わらない世界線で悩み踠き苦しむ人々がいる。その人々の世界にあえて踏み込み、思考実験や観察を重ね、寄り添いながら、解決の道を模索する。制限から、学びによって自由へ導く。遥か昔の「実用的な目的から離れた純粋な教養」としてのリベラルアーツでは役不足。これが「現代版」リベラルアーツの本質。そのための眼鏡として、システム思考を徹底するし、そのど真ん中にいるドネラ・H・メドウズの哲学を実装する。
まさかここまで私が真剣に、本気で語っているのに、おふざけしたり、成績ガーとか言い続けたり、ダルそうに参加したりする奴はいないと信じているけど、もしいたら徹底的に対話する覚悟で臨んでいるから、そのつもりで。

教育者が本気であることを示さないと、生徒も本気にはならないよ。

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