写真_2014-09-21_11_32_54

ジップロックとフジロック

ふと似ているなと思った。何の前触れもなくそういうことがある。

あれとこれが似ている。音の響きだったり、存在の確かさや不確かさだったり。あたり前のようにあるのに誰も意識していない感じだとか。

瞬間的にふたつのものが降ってきて、ランウェイの僕の前で立ち止まる。

そうだね。ジップロックとフジロック、似てるかもしれないね。音の響き以外にも何かあるんだろう。じゃなきゃ、わざわざ立ち止まったりはしない。

ジップロックは言わずと知れた食品保存用のバッグだ。僕もよくお世話になっている。たいていの食べ物はジップロックに放り込んで冷凍しておけばなんとかなる(個人の感想)。

うちでは「肉用」「きのこ用」とか用途別にいくつもストックされてる。あと、意外と液体もジップロックで冷凍できる。

以前、猟師さんから捌いたばかりの鶏ガラを大量にもらったとき、鶏ガラスープが大きな鍋いっぱいできたのだけど、その日にラーメン屋を開業するのはちょっと難しかったので悩んだ結果、ジップロックに移して冷凍した。

いや、そんなの料理する人なら常識なのかもしれないけど、スープを冷凍して解凍して使えるのってなんだか新鮮だった。どうでもいい話だな。

フジロックのほうは残念ながら参戦したことがない。というか野外フェス自体、最近すっかりご無沙汰している。最後にフェスに行ったのって、くるりの音博ぶりだ。9月の京都なんてまだ平気で真夏だから、ひたすらかき氷食べてた。

気が遠くなりそうな熱の波に打ちひしがれて聴いた椎名林檎『丸の内サディスティック』は、わりとまじで歌詞みたいにトリップしてたかもしれない。

あの夏が終わってるのか終わってないのかわからない。そんなことどうでもよくなる音の時間は、たしかに僕の胸の内にずっとある。ジップロックに閉じ込めたみたいに。

たまに、ふと何かのきっかけで思い出す。あの近くて遠い京都の空。

だけど、いつも取り出そうと思ってもうまくはいかない。保存されてるのに取り出せないのだ。

よく考えてみればジップロックだってそういうものかもしれない。たしかに保存はできるのだけど、それはいつでもその瞬間を取り戻せるものではなくて、ただ閉じ込めておくだけ。

それでも人は、いまこの瞬間を全部味わって消えてしまうのが悲しくて保存したくなる。

いまを消費して消えていく悲しみと、保存してもうまく取り出せない哀しみ。どっちも選べないけど、どっちもある。