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生きることしかやってない

退院して1か月ちょっとが過ぎた。その間、どう過ごしてたのか。

基本、定期的な通院治療と、治療の副作用からの回復の時間のコンボ。まあ、あっという間に時間が過ぎていく。

変な感覚だけど、めちゃくちゃ仕事をしていたときより時間が過ぎるのが速い。なんでだろう。

いや、正確に言えば「仕事だけ」していたときは時間をちゃんと自分で消化してなかった。消化する前に化学的な溶剤で溶かしてたかもしれない。

勝手に溶ける時間は、いつまでも未消化のまま(概念として)自分の周りにまとわりついている。だから、どっちかと言えば時間が重たかった。

それがいまは、すごく時間が過ぎるのが速く感じてる。

だから何だって話で、誰に向けて書いてるのかよくわからないけど。

まあいいや。とにかく光陰矢の如し。

こういう感覚って考えてなれるものでもないので(この先もあるのかどうかわからない)、とりあえず「いま」として自分のために言語化しておきたくて。

時間は光のように速く過ぎ去るのだけど、時間がいつも手元にある。

この一見、矛盾した感覚。それが言いたくてこうして文字にしてるのかもしれない。

手を伸ばせば触れられる時間。これほど豊かなものはないんじゃないか。

たくさんの先人たちが、なんとか「時間」をこの手に掴もうとしてきたのか、してないのかは知らないけど、たぶん時間を自分の手でハンドリングできてる感覚って、いろんな満足度の中でも上位なんだろう。

個人的には何が上位とか比べる必要性はないんだけど。

これも、さらに言語化すると何をしてても「生きてる時間」の手触りがあってとか、どんどん怪しい方向に向いそうなのでやめておく。そういうんじゃないです。もっとシンプル。

日々、生きることしかやってないから、そう感じるのはたぶん自分でもわかってる。呼吸して食べて歩いて寝る。合間に少し自分のための仕事をする。治療を除けば、ほぼ、生きることしかやってない。

動物みたいな日々(人間も動物から見たらよくわかんない動物なんだろうけど)。身近な動物で言えば猫のような時間。ヤギなのに。

これも似てるのだけど「生きること」と「生きるためのこと」は少し違う。

生きるためだと、そのために無理なことでも時間に割り込ませたり、いろいろ「考えて」時間を使ってしまう。目的性が見える時間。でも「生きること」はそんなの、いろいろ考える以前に自分の中にある。

客観的に見たら「生きることしかやってない(できない)」ってどうなんだって話もあるけど、生きることしかやってないってこういうことなんだって、手触りを持てるのは、それほど悪くないんじゃないかなと思ってる。