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そんなに人と違うことをしたいのだろうか

佳境が続いている。いきなり日本語が変だ。佳境は見せ場、素晴らしいピークを指すのにそれが続いたら佳境とは呼べない。

それに、そんな自慢できる状況でもない。でもまあ日本語が崩壊する程度にはそういうことなんだろう。

それでも仕事を切り換えるほんの僅かな合間に、いろんなことを考える。

仕事をしながらも考えてるのだけど、そっちは主にテキストになる要素を編集したりテキストを構成したり、文章に落とし込んだりというやつ。

処理の流れで言えば途中であっちこっち枝分かれしながら同時並行で考えながらやるので、自分のなんかしらんけど仕事するCPUに「マルチスレッド」な負荷がかかる。

で、仕事を切り換える合間に考えるのは、基本的に一つのことをシンプルに突き詰めるみたいな感じなので「シングルスレッド」な処理の負荷がかかる。

どっちが負荷感が高いかで言えば、シンプルに突き詰めるほうの「考える」の処理なのだけど、そっちはべつに気持ち的な負担感はない。わりとずっと考えていられる。

でもまあ、そればっかり考えていても現実の仕事は進まないので、だいたい突き詰めて考える系は断片化しがち。

それに、そういう考えることのほとんどは「大事だけど大事じゃない」ものだ。個人的には大事だから考えるけど、世の中的にはどうでもいい。そこに経済合理性はない。投下した時間コストに見合うものはすぐには還ってこない。

マックス・ヴェーバー先生の論を借りれば「価値合理性」が高いからやってるのかもしれない。

そんなことをやってると、結果的に「人と違う」ことが自分の周りに増える。土と話し込んだり。

で、それを見た人からは「人と違うことをしたいんですね」と言われたり、思われたりするのだけど、べつに人と違うことをしたいとはそこまで思ってない。いやむしろそこについては何も思ってない。

ただ、人と同じようにしたくてもうまくできないことが多いし、まあそれだから人と違うことになってるのが真実。

みたいなことをTwitterでボソッと話したら、仰かおるさんから「同じことしてるようで1人だけ違っちゃうケースになりがち、も追加で」と言われて、それもあるなぁと。

なんとなくだけど「人と違うことをするのが偉い」みたいな空気もたまにあるけど、そこを最初から狙うのもなんか違うんじゃないか。

その人にとっての自然なことをやって、それが結果的に人と違ってるていうのがたぶんいちばん楽だし、なんかいいなと思えるんだろうな。今日の戯言。