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舌はことばを知っている

料理番組は人生だと言ったら「は?」と思われるだろうか。

たまに料理番組を観る。テレビ自体、ほとんどリアルタイム視聴しないのだけど、料理というより料理と共にある「ことば」に惹かれて観てしまうときがあるのだ。

このひとは、いまも「自分の舌」からことばを発してると思う。

料理研究家の土井善晴(どい・よしはる)先生だ。言わずと知れた大御所の方だし、僕ごときが土井先生のことを何も語る資格はないのもわかっている。それでも、ちょっとだけ語らせてほしい。


いまの料理番組は、おしなべて手際が良い。おしなべて、なんていまはあまり使わない表現だけど「推し鍋」のことではない。

なんていうか、共通する文脈として「手軽・時短・見映え」が流れてる気がする。つくる料理にもつくり方にも。あと、そこに「健康にいい」がトッピングされたり。もちろん、それを否定したいわけじゃない。

そういう料理番組は、だいたいどの人がやっていてもまあ同じに見える。ああ料理番組だなと思うだけだ。

だけど土井善晴さんが出演されてる回だけは「何か違う」と感じてしまう。何が違うんだろう。

僕は料理家でもフード系のライターでもないので(食べるのも、食材や店の話も好きだけど)料理番組の構成そのものや、料理のレベル感みたいな違いはそこまでわからない。

そうではなくて、土井先生が料理をされながら合間合間に出てくる「ことば」が「料理」にとっての大切なことだったり、なんなら人生、生き方にとって大切なことだったりする。そこが他の料理番組に出てくる人と違うのだ。

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もちろん、意識して話されてるわけではない(と思う)。あくまで料理番組なのだから。主役は料理をつくるであって、合間のことばは添え物だ。

だけど土井先生の場合は、単なる料理の手順とかコツの話にとどまらない。ことばも料理なのだ。またちょっと何言ってるかわからないけど。

なんだろう。ことばそのものが料理と一体化してる。いや、違うな。料理と共にある人生があって、料理の中にあることばも切り離せないし、切り離す必要もないからそのまま話されてる感じがする。

食べることは生きること。食べるためにする料理も生きること。だから何をどう食べるか、どう料理するかも生きることなのだろう。食べることをつまらなくしていたら、どこかで人生もつまらなくなる。

なのだけど、ほとんどの料理番組では「おいしそうな料理」や「手順」のことしか語られていない。まあ、そうだ。観る人は人生まで求めてないしね。

そもそも、そこまで食べることとか料理の重要度は高くない。適当にお腹が満たされればいい。それよりもっと大事なこと優先度の高いことあるから。そういう人もいるだろうし、でも、そういう人は料理番組は観ないのだから考えなくてもいい。

きっと土井先生は、この時代にわざわざ料理番組を観たいという人に向けて、料理のつくり方と一緒に「これ、ほんとは大事なんやで」というものも伝えてくれているのだと思う。

哲学。というと大げさだし小難しくなりすぎかもしれない。でも、ほんとは料理と切り離せない人生の大事なこと。

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土井先生はよく料理番組で「そんなの自分がおいしければ何でもいいんですよ、家庭料理なんですから」と言われる。「(レシピと)おんなじものなんてつくれないし、つくる必要もないですからね」とも。

ああ、そうだよなと思う。

大御所の先生なのに、ことばがすごく軽い(もちろんいい意味で)。なんか、もうちょっと思ったように楽しんでみようかなという気にさせてくれる。

レシピどおりにやらないと不安、同じものがちゃんとできないと安心できないになる人たちには「そんなこと言われたって」かもしれないけど。

でも、よく考えたら「料理」も「人生」も生きてるのだ。常に同じであるわけがない。機嫌のいいとき、そうでもないとき。晴れの日、雨の日。ご飯が楽しみな日、それどころじゃない日。いろいろある。

そこに、どんなときだって寄り添えるのが「家庭料理」なのだ。本来は。

楽しく食べるときだってあるし、とにかく目の前を必死に切り拓いていく中で、おいしいなんて後回しのときだってある。

それでも、そのときそのときの「自分だけの料理」でいいんだよと土井先生は話してくれる。忙しいときは余り物でつくったお味噌汁に食パン焼いたやつ浸して食べるのでもよろしやん。あったまるし。

そんなふうに言ってもらえると、さっきまで、もう食べるの時間ないし面倒だなと思ってても、それならちょっとベーコンを刻んで炒めて、お味噌汁に入れたいなという気持ちになる。それぐらいならできる。ささやかなエネルギー。

人を少しだけ元気にさせてくれる。そのための家庭料理なのだ。雑に扱うのでも、すごくちゃんとしないといけないのでもない、その人のそのときに寄り添える食。

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番組で土井先生のことばを注意深く聞いていると「こうすれば失敗しません」「こうすれば時短ですね」なんてことは絶対に口にされない。

「こういうふうにすると、こうなるんですわ」「これだと、これぐらいでできますけどね」という表現をされる。こうでなければ、という誘導や正解は生きることを窮屈にしてしまう。

究極的には「自分の味付け」「自分の好みの加減」にしてくれたら。そんな感じだ。

ときには、それでちょっと失敗もするかもしれない。でも、それが人生だから仕方ないし、それでいい。

「失敗の味を覚えることも大事ですよ」

そんなことも言われる。そのとおりだなと思う。できれば避けたい味だけど、失敗をちゃんと味わうから次にもっといい味が生まれることはたくさんある。料理でも生きることでも。

料理も人生も絶対的なレシピなんてない。

土井先生は、僕の言うとおりにしなさいなんて思われていない。僕はこういうふうにしてるんですわ。これが好きなんです。という「自分」を見せてくれる。

きっと土井先生もいろんなものを自分でちゃんと味わって、自分の味付け、好みの加減を持たれたんだろう。自分でちゃんと味わって身に付けたもの。それが料理をつくるときも、生きる上でも大事なんだと僕は勝手に教えていただいた気になっている。

僕は料理のプロではない。でも、ことばは扱って生きている。だから、出てくることばが「何にでも使い回せて、適当に映える」ように料理されたものかそうでないものかはわかる。

土井先生はもちろん、自分の舌でことばを知っている人だ。あれほどのクラスにいる人なのに、周りが用意した「何か」を使わずにずっと自分の舌で味わったことばで話をされる。端的に素敵だ。

すごく晴れやかな食の世界もそれはそれで魅力がある。僕みたいなライターでも、たまに会食に連れられてハプスブルク家の宮廷料理を再現したコースを値段のよくわからないワインといただいたり、京都の一見さんが入れない奥座敷のある料亭で借りて来た猫になったりする。

それはそれで貴重な体験だし、おいしくて味覚がバグることもある。でも、じゃあ「自分の舌」が幸せかというとちょっと違う。

それより、何でもない日常の食、料理の中で「自分の舌」が、これが幸せなんだって知ってるものをちゃんとつくって食べれたらどんなにいい気分だろう。

それを食べながら暮らして、素直に舌が知ってることばだけで誰かと何かを分かち合えれば自分の大事な部分から喜べる。

その喜びはきっと、すごく凝った料理や生き方以上に自分を満たしてくれる気がするんだ。