僕は共感しないスキを押す
人には2つの生き方がある。
「人とわかり合える」と思って生きる派と「人はわかり合えない」と思って生きる派。パクチーを気にする派と気にしない派のように。
自分はどっちなんだろう。
マジレスすると、わかり合える部分もあるし、わかり合えない部分もある。
いや、そんなの誰だってそうだろってなるとそこで話は終わる。そうじゃなくて、前提の話だ。
人とは基本的にわかり合える前提で付き合うのか、わかり合えない前提で付き合うのか。もちろん、どっちが正しいってことでもなくて、そこがあらためて考えると不思議というかおもしろいなと思うんだ。
わかり合えると思って生きてる人も、わかり合えない場面に遭遇するし、わかり合えないと思って生きてる人も、案外わかり合えることがあったりする。
そう考えると、どっちを前提にしてても結局そんなに変わりはないんじゃないか。
沖縄の那覇から北回り、南回りどっちからでも地球をぐるっと回っていけば、ちょうど半周したところ(対蹠地)のブラジル南部パラナ州オノーリオ・セルパの町でどっちも出会うみたいなものかもしれない。
ちなみにオノーリオ・セルパの町に唯一あると思われるカフェの情報を調べても、なぜか女子サッカーチームの話しか出て来ない。
地球を半周してようやくカフェで一息つこうと思っても、ひたすらリフティングをしないといけないのだ。さすがブラジルだなと思う。
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何の話だ。そう、人とわかり合える、わかり合えないどっち前提でもそんなに変わりはない。
僕個人でもそう思って生きてる。
わかり合えると思っても、表面的な部分(それで十分なこともある)から結構深いところまで入っていかないと見えないものまでいろいろある。
深いところまで付き合うには、それなりにサンクコスト(戻ってこないコスト)になるかもしれなくても、それでもそれだけの魅力が相手にあればいいと思ってる。
わかり合えない前提で付き合うのも、深いところまでいって、それでもわかり合えないというか「こんなに違うんだ」が見えてくれば、それはそれでおもしろいし。
なんだろう。ある意味では、浅いところでの「わかり合える」より、もしかしたら深いところまで掘ってお互いに「こんなに違うんだ」を発見というか認識できるほうが価値がある気さえするから。
そういう意味で、noteのスキも共感だけじゃなくてもいいのかもしれない。わかり合うとは別のところで、こんなに違うけどそれはそれで尊重したくなる何かに出会えたら僕はスキを押したくなる。
まあ、こういうのって言語化が難しいのだけど。