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広告の終わりとナラティブの始まりと

いつからなんだろうか。「どうせ広告でしょ」「なんだ宣伝じゃん」――。
メディアで見聞きするメッセージに対してネガティヴに受け取ることが多くなったのは。

そこに生まれるのは、若干の「またか」なウザさやどうでもよさ。

もういまは、新しい何かが生まれても広く告げる必要性が薄まっている。広く告げた分だけ必要ない人にも届く「広害」になってしまうリスクが高い。そうでなくても情報はあふれてるし、新しいイコール価値ではないのだ。

で、広告終わったね、と他人事にもできない。言葉と生きていく人間としては。本もそうだしnoteもそうだ。1対nで何かを伝える、発信することはいまのところなくなったりしない。

ただ、伝える行為の関係性が変わってきてるのだと思う。なんだろう。記事でも広告でもPRでも、すべての「伝える」にいま必要なのは、メッセージの中身や表現以前に「対話」する姿勢じゃないのか。

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対話、ナラティブだからどちらが上でも下でも優位劣位もない。フラット。一緒に考えを深めながら対話を積み重ね、結果として「それいいね」が生まれる。

そういう関係性の「伝える」ならポジティブに受け取れるんだと思う。
一方的に「他よりこれを見ろ」「こっちのほうがすごいだろ」と告げても「それいいね」にならないのだ。

逆に言えば、一緒に考える姿勢、対話する関係性があればどんなテーマでも話す意味はある。一方的ならそこに生まれるのは衝突や感情的な問題になるけれど、ナラティブなら何かが確実に積み重なる。

対話だから、白黒つかないかもしれないけど、それもいいかもねという結論だってお互いが気分良ければOKだ。

広告だって「これ買え」「これがすごい」「これが安い」ばかりじゃなく、ナラティブなメッセージの中から「こんなこと考えてるんだ」が伝わってくれば、もっと自然にエンゲージメントが生まれるかもしれないのに。