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noteを「読む」からnoteで「会う」へ

なんとかエコノミーみたいな言葉はメディア界隈の人たちが、つい吸い寄せられてしまうのだけど、たまに芯を食ってるものもある。あ、難しい長い話ではないので。

「パッシブ・エコノミー」って聞いたことあるだろうか? 僕はなかった。なぜなら自分がさっき思いついたものだから。

passiveは文字通り「受け身」「受動的」ってこと。だから「受け身で回る経済」。

いや、ほらもう情報摂取するのもモノを買うのも、サブスクでも何でも何かのサービス使うのもだんだん面倒くさい。選ぶのに考えたくないというか、そこに時間とか精神を削られたくないという感覚。

年々そう思う気持ちが増えてるんじゃないかって気がする。まあ、まったく僕だけの思い違いかもしれないのだけど。

いろんなとこで引き合いに出されてるけど、情報の総量だけで見ても数百年前の人々の一生分の情報を1日で受け取ってて、とっくに消費できなくなってるし。

じゃあ、君はなんでnoteやってるの? そんな声がどこからか聞こえてくる。

そうだよな。べつになくても生きるのに「困る」ことはない。一時期いろいろ言われた不要不急に入るのかもしれない。

でも、noteは自分の生活というか生き方に入ってきてる。なんでだろう。これが本当にnoteもpassiveで完全受け身でしかないメディアだったら、たぶんどこかで離れてる。

なんていうか、僕はnoteを「読んでない」んだ。受け身で読んでるだけのメディアではなくて。

僕がnoteで出会った人たちの中には、リアルで人と出会ったときよりも「深い」というか、もっと生き方の上位概念みたいなレイヤーのところでも「言葉」を持ってる人が結構いる。

そうした人がnoteで書いていることは、ただの文章じゃない。生き方と一緒になってるというか。それは決してカッコいいものだけでもなく、わかりやすいものばかりでもなくて。

ときには熱を帯びて触れるとこっちにも熱が伝わってきたり、ざわざわしたり、一緒に深いところで考え込んだり。

それって、もう「人と会ってる」のと同じじゃん。

人と会って対話してるときは受け身じゃない。一緒に時間も思考も動いてる。言葉をお互い受け取りながらどこかに進んでる。

もちろん、三次元的にはnoteを読んでるわけだけど、ただの受け身の「読む」じゃないから。

「受け身」だけで摂取して消費できる情報は限界がある(と思う)。24時間すべてをそこに費やせない。

だけど受け身じゃなく、人と会うように読んでるnoteは、物理の「読む」を離れても自分の中に入ってくる。自分の中に取り入れてしまえば、原理的には限界はない。

だから僕はきょうも人と会って話すようにnoteを読んで書いてるのだと思う。

ってよくわからない話。

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