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文章のおもしろさより、その人のおもしろさ

おもしろい文章を書こうとしてる人には、おもしろい文章は書けない。

なんだか禅問答(この言葉通じるのかな)みたいだけど。

おもしろい文章といっても人を笑わせるとか、そういうことじゃない。気づいたらグイグイ引き込まれてるとか、何かすごく気になる空気が漂ってるとか、静と動、明と暗、犬と猫いろいろタイプはあるけど「読みたい」ことを書いてる文章。つい読んでしまう文章だ。

仕事でも何かの課題でもないのに「文章」を読むなんて、よく考えれば相当おかしなことだ。え? と思われるかもしれないけど、僕はそう思ってるしそう思ってこのnoteも書いてる。

読まなくてもべつに日常生活に支障をきたすこともないし、水や食べ物みたいに摂取しなければ生命的にどうにかなることもない。なのに、人は「読む」のだ。おかしい。

そうでなくても2019年の僕らは忙しい。いろんな情報とタスクをパンパンに詰め込んで日々を送ってるのだ。どこに、わざわざ文章を読む理由と時間があるんだろうか。おかしい。

さっきから「おかしい」しか言ってない気もするけど気のせいかもしれない。

話を戻さないといけない。おもしろい文章を書くって何なのか。

僕だって、できればおもしろい文章を書きたいと思ってる。願ってる。今年の七夕の短冊にもちゃんとそう書いた。おもしろくもない文章は自分が読みたくないからだ。

ただ、残念なことにいまのところその願いは叶えられていない。

イトーヨーカドーの短冊ではダメだったのか。「プリキュアになれますように」の横に吊るしたので、妖精がそっちを優先したのかもしれない。どうしてなんだろうか。

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ずっと考えていて、はっと気づいたことがある。おもしろい文章を書いてる人がいるのは「その人がおもしろい」からだ。身も蓋もない話だけど。

おもしろい人とは、人を爆笑させる人のことではない。その人の存在そのもの、内面も行動も、思考の宇宙も「なんか世界を持ってる」人。なぜかその人が歩くと、違う位相が見えてしまう人。

なんでもないことを書いてても、たとえば「砂糖をなめたら甘くて驚いたんだ」とか、べつに僕が書いてもおもしろくもなんともない。むしろ、しょっぱい体験になりかねない。

おもしろい人が書いたら、それはきっとおもしろい文章になる。

ということは結局、僕らは文章を読みたいんじゃなく、その向こう側にいる「人」に何かしら興味があるのかもしれない。

だから最初は「文章」が入り口だったとしても、いつの間にか「その文章を書いてる人」の世界の見方、感じ方、切り取り方、細胞からこぼれるバイブスと言葉を受け取りたくなるのだろう。

これはもうとっくに答えが出ている「何を言うか」より「誰が言うか」問題と何周か回って同じ。

僕もちゃんとおもしろい人になりたい。おもしろい文章が書けたら寿命が来たとき死んでもいい。まずはうどんを食べるところからだな。そして徹夜明けにウィグルに知らない人と旅しないと。