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反応でものを語らない自分ルール

決めてることがある。何か書くとき(話すときもだけど)反応だけでものを言わない、語りはじめないということ。

世の中には「は?」みたいなことが溢れてる。たぷたぷだ。

例のグレタ・トゥーンベリさんの怒りスピーチとそれに対するお怒りの大人たちもそうだし(何らかの理由で子供に怒鳴る必要がある、いい大人を受け入れるために『グレタ・トゥーンベリ ヘルプライン』まである)、noteさんの部分最適な(に感じてしまう)タイムラインのカイゼンとかもまあ。

そこでつい何か“反応”したくなってしまうかもしれない。けど自分ではしないと決めている。というかできない。

理由はいろいろあるけど、まずものかきという仕事上しないほうがいい。反応だけで書いたり話していいのはクローズドな仲間うちだけだ。

どんなかたちであれ世の中に出てしまう文章で反応だけの中身のない、あっても怪しいものを書いてしまうのは、ものかきとしてダメだろう。

公開情報、伝聞から反応するのを別に否定してるわけじゃない。ただの会話とかつぶやきならそういうのもいいけど、仕事にもつながって見られるかもしれない場所では反応で書いたり何か語るべきじゃない。

完全にそれができてるかと言われると、まあ人間だから一瞬、反応しそうになることもあるけどわりとすぐに、それちがうなとなる。何がちがうのか。

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ほとんどの場合、公開情報、二次、三次情報として出てくるものは薄まってるか、わかりやすく単純化されてる。グレタさんの件なら少女活動家の憎悪VS大人たちというように。

だけど実際はそんな単純なものじゃない。いろんな要素が複雑怪奇に絡みあい、何がどこにどうつながってるのかパッとはわからない。世界レベルの事象じゃなく、当事者数人のものであっても本質的にはその複雑さは変わらない。

なのに希釈化され表層的になった「事件」やパワーワードだけつかまえて反応で語るのは、なんだかちがう気がする。

つまり「反応」だけでものを語るのは、表面の事象、しかも直接の当事者とかではない現場外の二次、三次情報だけ見て語ってるわけだ。もちろん、そこに自分の心象を重ね合わせたものを書く場合もあるので、全部がダメなわけじゃないです。

ただ、反応だけで心象も通さずに掘り下げもせずにものを語るのは、読む側としては気付きも楽しみもないのでしないようにしたいと思ってて。


実際、ライターとしていろんな機会があって、あとから当事者に取材すると、「対外的にはそういう話にしてたけど、実は――」みたいなのがある。

この前もオリンピックのある有名なエピソードに関連して当事者の方に話を聞かせてもらって「え、世間で定着してる話とぜんぜんちがう」みたいなのがあった。書けないし書かないけど。

本当は「え、そんなことで?」というオチがつくような単純化するしかない事象も多いけど、それも自分で一次情報や現場に出向いて体験体感したうえで、そうだったんだならいいと思う。すごく大層な問題の発端はくだらない話だったとか。そういうのも取材や原典の情報をあたってるとたまにあるし。

まあ、そんなわけでものかきをしてるとある意味、何か書くのも語るのも不自由っちゃ不自由。いちいち「ほんとに、そうなの?」「だから何なんだ?」を発動してしまうから。

なのでまあ、いろんなことを反応で語ったり書いたりせず熟成させてるのが多い。熟成下書きだ。だからnoteでなんだかんだしてるのかもしれない。

ほとんどのものは熟成にも至らず消滅したり腐る。でも、たまにしばらくたってから「何か」になることもある。それがいいのかどうなのかわからない。時間も無駄にすぎていくし、乗っかったほうがいいときに乗れないこともよくある。

僕の場合は反応で瞬発的に何かするタイプじゃないとわかってるので、たぶんこれからもそうするしかないのだけど。