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僕がイヤホンを外した理由

使わないものは記憶から消える現象がある。

最近も「イヤホン」が記憶から消えた。Apple謹製のイヤホンを所有してることをすっかり忘れて「イヤホンないから買わなければ」と真剣に考えたりもした。

よくよく考えたら、いまのiPhone開封の儀をしたときから、まったく手つかずでそのまま箱の中で眠っている。東京での生活と違って、こっちではイヤホンをして出歩くことがほぼないのだ。

AirPods着けて歩いてる人も、他の都市と体感で比べても東京が圧倒的に多い気がする。定量的なデータはないけど。そんなの調べられてるんだろうか。

僕も東京で仕事して暮らしてたときは、いまよりもっとイヤホンとの距離が近かった。外出するときはマストだった。

なのに、なんでイヤホンの存在を忘れるぐらいしなくなったんだろう。

野本響子さんのnoteを読んで、「ああ」と思った。そうか。以前は音楽を聴くのもそうだけど、無意識レベルでノイズを排除したいのもあってイヤホンが手放せなかったんだ。


なぜ不快な音と、そうでない音があるのか? 野本さんと息子さんの考察がすごく興味深い。自分のどんな感情記憶とつながってるかで音の「快」「不快」が左右される。

そして自分のいる場所が、自分が受け入れられているかどうか、コミットの度合いでも、その場に流れるさまざまな音の感じ方が違ってくる。

要は、音によって自分が浸蝕されそうだったり、排除されそうだったり、そうした感情を呼び覚まされると何でもない音でも途端に不快になるのだ。

臭いもそうだけど、下界で自分にどんな音が入ってくるかはコントロール外なことが多い。だから、あらかじめ防御として自分を不快にさせる可能性のある音を寄せ付けないようにしたい。イヤホンは簡単かつ最強の防御だ。

で、僕もそうしてたのだけど、信州に移り住んでからすっかりイヤホン装備を解いてしまった。端的に自分を守らなければと思うことが少ないのだ。

街中に出ても、イヤホンで歩いてる大人も圧倒的に少ない。高校生はしてるけど、それはまたその年代特有のあれやこれがあるのは自分もそうだったしわかる。たぶん、こっちではAirPodsもそこまで売れないんだろうな。

ただ、これもよく誤解されるのだけど、田舎、里山だからっていつもシーンとしてるわけではない。

農繁期にはさまざまな農業機械が音を立てるし、以前noteにも書いたけど自然界の生きものだってけたたましく鳴いたりする(ウグイスが本気の婚活モードに入ったときの鳴き声は目が覚めるレベル)。

僕自身も、チェンソー使ったりもするし(街の中ならみんな窓開けて睨まれるかもしれない)。

でもまあ、田舎ではよほどのことがなければ「お互いさまだし」という空気がある。そもそもみんな知り合いだから、特にそういう音に「誰だ!」ということにもならない。素性がわかってるから、ああ作業してんだなと思うぐらいで。

音には関係性があるんだろうな。

自分に関係性のある音は、たいていの音が気にならない。

信州に移り住んでからまったく外でイヤホンをしなくなったのも、耳に入ってくる音が「こっちの暮らしでは自然な音」「その音が自分の生きている一部」だからだ。きっと。