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大事じゃないけど大事なnote

noteでは、本当に大事なことも書くけど、大事じゃないけど大事なことも書きたい。ずっとそう思っている。

けど、そういうのを求める人って基本的には少ない。まったくいないわけじゃないけど多数派ではない。まあだから、読んでくれる人ってすごくありがたい。ほんとに。

仕事の文脈では基本的に「大事なこと」だけが求められる。そりゃまあ、そうだ。いろんなコストをかけて「大事じゃないもの」を手に入れたい人はあまりいないよね。

だからなのか、世の中は「大事なもの」「大事な情報」で溢れかえっている。気がする。あれもこれもどれも大事なものばかりなのだ。

そこに「大事じゃないもの」が入る隙間はない。少しでもそんな隙間があれば、可及的速やかに「大事なもの」で埋めなければならない。コンビニの棚と同じで、用のないもの、役に立たないもは要らないのだ。

そもそも、僕たち自身も基本的に「役に立つ」ように育てられ教育される。家でも学校でも職場でも。

誰かの役に立つこと、大事なものを生み出すことで食べるものが得られ、世の中が回っていく。その仕組みはある意味、すごい発明だなと思う。まじで。

そこを否定したいわけじゃない。自分だってその中で生きてるんだし。

だけど、それだけじゃないよなとも思う。

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うちの実家の猫(1歳キジトラ)も役に立つかと言われれば、即物的な意味では何の役にも立たない。むしろ破壊活動(世界中のあらゆるものに興味があるので何でも猫手を出す)のほうが多い。

猫の手も借りたいは、借りれないし借りる意味もないからそう言うのだ。

じゃあ本当に必要ないのか。大事じゃないのか。そんなはずはない。猫は必要。猫は正義。役に立たないけど大事。

結局、そう考えると大事じゃないけど大事なものを守るために生きてるんじゃないか。そんな気がしてくる。

tamamiさんの記事も人間にとって「役に立つ」とか「大事なもの」って何だろうだ。読むと(いつもそうなのだけど)細胞たちが勝手に思考を始めてしまった。

生きていくときに「記憶」も「記録」もどっちも大事。だけど記憶はすぐ自由にどこかに遊びにいってしまうし、記録だって僕みたいな凡人には完璧とは程遠い。

だけど「大事なもの」は記憶の中にも記録の中にもある。本当に大事で大事なものと、大事じゃないけど大事なものの両方。どっちかだけを選べと言われても難しい。あてにならない記憶だって愛すべき記憶だし、抜け漏れのある記録だって自分の証だから。

そして、ときには「愛すべき記憶」と「完ぺきではない記録」の狭間に、すっかり忘れていた大事なものを見つけることもある。

今すぐ役に立つものでもないし、今、目の前にあるものに対して大事かと言われれば大事ではないかもしれないけど、自分はやっぱりこれがあれば生きていけるんだなというもの。

それはやっぱり、大事じゃないけど大事なことなんだ。