写真_2019-02-07_18_05_09

作者の気持ちを作者は答えられるのか?

「君たちはそれぞれの鼻毛に背負わせすぎなんだ」

武田砂鉄さんのエッセイに出てくる名文。2018年末の『タモリ倶楽部』の企画「作者の気持ちを作者は解けるか?」で、現代文の入試問題を解く中で出題されてバズってました。

この文章がいまだに僕の中ではじわってて。

鼻毛を伸ばしっぱなしの友人と作者(鼻毛を切る側の人)とのやりとりから生まれた「鼻毛に背負わせすぎ発言」について入試問題では、発言の意味としてもっとも適切なものを選択することが課されてます。

正解は「全体の数を減らした結果残った1本あたりの鼻毛の負担が大きくなる」。鼻毛は異物や埃を防ぐ役割だからというもの。

まあ、そのとおりなんだけど、そういう「正解」が「ほんとにそれが正解でいいのか」ともやもやするわけです。

あくまで「現代文の入試問題」という文脈なので、ここでは「与えられた文章の中から正しく(論理的に)情報を読み取る」ことが試されてるわけで、その意味では「鼻毛の生物的な機能、役割」から考えて正解を導き出すのが正しい。

エッセイだろうが評論文だろうが現代文に違いはないので、情緒的な何かが見え隠れしていたとしても、そこに惑わされずに「情報を正しく読み取る」ことが必要なんですね。試験に合格するには。

        ***

本当は言葉を発した本人も意識してない「何か」が言外に含まれてることだってある。それが何かは明示されてないけどそれも含めて「引っかかり」があったから言葉を浴びた作者の中に残ったんでしょう。

「君たちはそれぞれの鼻毛に背負わせすぎなんだ」という言葉が出るときを想像してみたら、やっぱりそこには鼻毛の機能以外の何かがあっても全然おかしくない。

鼻毛は切るものという常識を人間が勝手に鼻毛に背負わせること。ナチュラルに鼻毛を伸ばしている人を見かけたら、君は鼻毛でもないのに「異物」として排除しようとして「鼻毛のあるべき正しさ」まで背負わせてないかとか。

そこから突き詰めて、何でも社会的な正しさが優先されることとか、常識に異を唱えないこととか、そういうのまで背負わせそうになってるかもしれないとか。

でも、そういうの要らないんですよね。

で、思ったのは「いま、現代文の試験受けたら落ちる自信ある」。試験脳にならないと正解できないし、論理的な正解につながる以外のことも同時に考えてしまう人間には向いてないっぽいです。

もちろんライターなので仕事の上で日本語というか現代文を扱うときは、めっちゃ回路を切り換えるので問題ないのですが。

ただ、ああ、こうやって「正解」そのままの意味しか読まない人間が量産されていくんだなと思ったり。だったらほんとに、いろいろAIでいいのかもしれない。