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世界が手に入っても入らなくても

人間には二つの考え方がある。世界を手に入れたいという考え方と、世界を感じたいという考え方。

どっちがいい悪いではなく、ある。考え方というかアティチュードというか。

たぶん無意識レベルでは僕にだってあるんだろう。人間に備わった欲のような何か。あるいは原罪みたいなもの。大げさ。

で、自分の置かれた環境とか状況でどっちにもスイッチが入る。世界を手に入れたい←→世界を感じたい。

人気。評価。影響力。物質的な何か。

とりあえず何か手に入れないと「自分」の存在が揺らぐような気がするときは、世界を手に入れたいスイッチのほうが入ってるのかもしれない。



そうかと思えば、世界を手に入れるなんてどうでもいいから、自分にとって大事なことのほうを書きたいとフルスイングのnoteを書く人もいる。

マリナ油森さんのnoteも読んでふっ飛ばされた。

私は「ちゃんとしない」を書きたい。
ちゃんとしたエッセイの裏には、ちゃんとしていない日々がある。
得意げに文を公開する裏では、うわぁどないしたらええんやとなっている。


そうだんだよ。この世界は「ちゃんとした」すごいことが求められたり評価される。そりゃそうだ。

仕事としてなら余計にそうなる。ちゃんとすごいもの。ちゃんと売れるもの。じゃなきゃその仕事をする意味がなくなる。というか仕事がなくなる。

もちろん、そっちもほどよくちゃんとやる。世界だって手に入れる。少しはね。

けどやっぱり、マリーナのように(急に呼称が変化する)ちゃんとしないの世界も塗り重ねたい。そして、こんなちゃんとしない世界もちゃんとあるんだってことを感じていたい。

どんなに「ちゃんと世界を手に入れて」も、ちゃんとしない世界を感じられなくなったら、そんな世界に僕はあまり喜びを感じないと思う。