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感覚のまなざしを持った優しくて強い人

柔道家の古賀稔彦さんが亡くなられた。

柔道の関係者でもない僕なんかがnoteに追悼を書くのは憚られるのだけど、気持ちが追いつかない。なんで、ほんとに「いい人」ほど先に逝かれるんだろう。

昨年、ある柔道の本の編集に携わらせてもらった。柔道の知られざる魅力を発見してもらう(語弊があるのを承知で言えば、ちょっと前のラグビーのように食わず嫌いな人が多いのかもしれない)コンセプトの柔道本。

痛そう怖そうな柔道ではない、あまり知られてない柔道の歴史、海外での子どもたちの柔道人気、柔道をきちんと発達デザインに落とし込んだ教育、そして柔道観戦の楽しみ方など、柔道の視野を広げる本だ。評判もよかったみたいで海外でも翻訳版が出た。

柔道の名勝負や技の解説なんかも載ってるのだけど、その中で伝説になっている1992年バルセロナ五輪での古賀稔彦さんの金メダルエピソードも書かせてもらった。

後輩、吉田秀彦さんとの現地での練習中に膝に大ケガを負い、まったく練習できない状態でメダルを獲得し吉田さんと抱き合って泣いたシーンは、よくアスリート名場面なんかでも取り上げられている。

本では、古賀稔彦さんの治療にあたった当時の日本柔道男子チームの帯同ドクターからの「今だから語れる話」として、これまで医療関係者の講演などでしか公表してなかった事実も載せさせてもらった。

もちろん古賀さんにも先生から話を通させてもらって快諾をいただいた。

当時の報道などでは「左膝内側側副靭帯損傷」全治2カ月、五輪絶望という、それだけでも大変な事態だったのだけど、本当はそこにさらに「総腓骨神経麻痺」も起こっていた。

「腓骨(ひこつ)」とは膝から足首までを構成する外側の骨。内側は「脛骨(けいこつ)」。その腓骨神経が麻痺してるとは、足首も足指も足関節を自分の意思で上げたり下げたり動かせない状態。

畳の感覚を足で掴んでコントロールできないのだ。実際、試合前日の検査でも足関節背屈の度合いを示す数値は最低レベル。わずかな筋収縮があるだけで、まともに歩くのさえ困難でどう考えても翌日の試合に臨むなんてほぼ不可能。

おまけに当時の71kg級の体重にするための減量を食事制限だけで行わないといけない。練習もできない状態で痛みと空腹に堪え、まともに眠ることもできない。満身創痍だった。

そこから、どうやって金メダルの奇跡を手にしたのか。ドクターから見た舞台裏の話も合せて本に書かせてもらったのだけど、それ以上に僕が感じたのは古賀さんの「感覚」の繊細なすごさと優しさだ。

古賀さんの強さには、代名詞の美しい一本背負いといった技や単なる精神力だけではない繊細な感覚が働いていたんじゃないかと思う。

これまでもアスリートの取材をさせてもらってきたけれど、当然、五輪でメダルを獲るようなレベルの人は、みんなそれぞれに「鍛え抜かれた強い言葉」も持っている。それもどちらかといえば直截的でフィジカルに裏付けされた言葉。

古賀さんの言葉ももちろん鍛えられた強いものではある。

だけど同時に繊細さとメタ的な冷静さも併せ持っていた。上手く言えないのだけど、すべてを支配することなく包み込んでしまう。感覚でしかつかめないものにも、きちんと自分のまなざしを向けられる人。

もちろん僕はアスリートでもないし五輪の重圧を身を持って感じることもないので「言葉の感覚」でしか言えない。

あれだけの大ケガで畳の上に立ち、しかも世界レベルの猛者たちと真剣勝負するなんてふつうに考えても心が折れる。それに、どうしたって並の人間なら自分のケガや痛み(痛み止めの注射やテーピングをしていたとしても)の感覚に囚われてしまう。

なのに古賀さんはケガをした自分ではなく、それ以前に積み重ねてきた「自分」と向き合った。努力の納得の限界を決めない。これも有名な話だけど初の五輪だったソウル五輪での屈辱からここまで自分を持ってきた努力は誰より自分がいちばん知っている。

ケガを見つめるのではなく、積み重ねてきた自分をちゃんと見つめてそっちを味方にしたのだ。

言葉にするのは簡単だけど、ほんとはそう簡単なことではない。

繊細な感覚で自分も周囲もメタ的に見れる人でないと、そうはできないと思う。だからこそ古賀稔彦さんは決勝での最後の最後の判定にもつれこんだ瞬間まで「自分」を手放さなかったのだと思う。

本当に強い人ほど繊細で優しい。

本が完成して、関係者にいただいた古賀さんからの感想のメールにも繊細な優しさが溢れていた。おそらく、その時点でも病は重くなっていたはず。にも関わらず、そこには優しくて強い古賀稔彦さんの姿しかなかった。


あらためて感謝申し上げると共に、古賀稔彦さんのご冥福をお祈りします。