見出し画像

書くことで疲弊しないために

100%の自分で書くことは本当に救いなのだろうか。

noteで書いていて矛盾するように思えるかもしれないけど。

ライターとして仕事で日々ものを書いているのは、変な言い方だけど半分の自分で書いている。自分が100%で書くのはほぼない。

もし、100%の自分で書き続けるとしたら、どこかで筆が止まるか倒れると思う。それぐらい書くことは自分を使うことだから。

こういうふうに書くと、半分しか自分を使わないのは手を抜いてるみたいに思われそうだけど、そういうのではなくて。

ライターの仕事はインタビュイーであったり、取材対象や世の中の森羅万象変態百出含めていろんな「相手」との共同あるいは協働で行われる。自分だけではどんな原稿も書けない。

たとえモノローグのように書いたとしても、ライターとして書くものには、必ず「誰か」と「何か」が外部要素としてある。だから半分の自分を使い、残りの半分は誰かと何かの想いや考え、行動が入ってくる。

それはかたちあるもの、言葉を持つものに限らずの話。

書くものの中に100%自分を使ってしまったら「誰か」と「何か」は入れられない。

同じものを対象にしても、書き手のライターによって書かれるものが違うのはそういうことだ。

そうやって書いたものは、書かれる前とは違う位相に書き手も書かれるものも、読む人も運んでいく。誰かを置いてけぼりにすることはない。

逆に言えば、だから仕事の文章は書き続けられる。もちろん休みなく書き続けて疲労はするけれど、疲弊まではしない。

100%自分を使って書くことは楽しいし苦しい。自分だけでどこまでも行かなくてはいけない。それがなんてことなく続けられる人は根っからの「作家」なのかもしれない。

100%の自分で書くことを自分の生き方にしてる人なら問題ない。

でも、何か書いてて苦しいのが続いてると感じたり疲弊してるなら、自分を半分で書くのも「書くことを続ける」ひとつの方法にはなると思う。

半分の自分で書いても自分は必ずそこに入ってくる。

書くことに100%自分を没入させないから、見えないけれどかたちあるものを感じたり触れながら書くこともできる。

文章を書く場面で「自分と適切に距離をとる」ことも、ずっと書き続けられるために必要なこと。

何かを書けるってかけがえないことだから、本来いいことであるはずの「書くこと」で疲弊しないためにものメモ。

この記事が参加している募集

習慣にしていること