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ヒヤシンスは眠れない

ヒヤシンスの球根を食べた。夢の中で。

たぶん本当は食べちゃいけないものなんだろうけど、夢の中のわたしは焼き菓子でも齧るみたいに食べていた。

その球根は会社の給湯室でオダシマさんにもらったのだ。わたしが、最近なんだか眠れなくて、という話を彼女にしたら「いいもの持ってきてあげる」と言って、次の日会社に球根の付いた花を持ってきてくれた。

「このヒヤシンスね、うちのおばあちゃんが育ててるの。ヒヤシンスって昔のペルシアとか原産なんだって。あの辺の国って、ほら、好きな夢を見るための香草とかあるじゃない。それで、おばあちゃんが取り寄せてずっと育ててたのが増えちゃったの」

オダシマさんの話は、なんだか御伽噺みたいに本当のことなのかどうかよくわからない。

けれど、不思議にそうかもしれないと思わせるゆらぎがあって、そのちょっと時空を外した感じが嫌いじゃなかった。

会社の女の子たちの中でも、オダシマさんはちょっと浮いた存在と言えなくもなかったけど、本人はまるで気にもしていなかった。

その浮き具合が、何がどう浮いているとか、うまく言えない感じのものだったので、とくに何か悪く言われるわけでもなく不思議な位置にオダシマさんはいた。

ほかにも、オダシマさんが、実はある役員の親戚の子なのだとか、帰国子女で事情があって今は大きな家にお手伝いさんと一緒に暮らしているのだとか、いろんなうわさを身にまとっていた。

どれも本当のようだし、まるで違うような気もする。どちらにしても、そのいつもいい匂いのする長くてきれいな髪と同じくらい、彼女の周囲には特別な空気が漂っていた。


そんなオダシマさんが泣いているところを、一度だけ見たことがある。わたしが会社に入って間もない頃だ。

デスクでうっかり飲みかけのペットボトルの水を倒してしまい、拭くものを探しに慌てて給湯室に駆け込んだらオダシマさんが携帯を握りしめて泣いていた。

あっ、と思って引き返そうとしたわたしにオダシマさんは無言で布巾を渡してくれた。

その後、お礼を言いにいくと、さっきのことなんてなかったみたいに曇りのない笑顔で「大丈夫だった?」と心配してくれた。

それ以来、オダシマさんは、わたしにいろいろ声をかけてくれるようになった。


ヒヤシンスの球根をもらってしばらく経ったある日。

駅に向かう会社終わりの道で前を歩くオダシマさんを見かけた。駆け寄ろうとしたらオダシマさんは花屋さんの前で立ち止まり、何かをちょっと見つめてから店の中に入っていった。

店の前まできて中を覗くと、後ろ姿のオダシマさんの手にはヒヤシンスの切り花が握られていた。

わたしは、そのまま何も声をかけずに通り過ぎた。

電車に乗ってから、薄紫色のヒヤシンスの花と透きとおりそうなオダシマさんの手を思い出す。泣きそうなくらいきれいな手を。

「紫のヒヤシンス泣く くれなゐのヒヤシンス泣く 二人並びて」

次の朝、会社の自動販売機で水を買っていたわたしにオダシマさんが声をかけてきた。

「最近どう、眠れてる?」

わたしの顔を覗き込むように微笑むオダシマさんに、少しドキッとして「大丈夫、ヒヤシンス効いたみたい」と言って微笑み返した。


※昔のnoteのリライト再放送です


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