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なぜ街に告白するんだろう

日本人は羞恥心が強いとか、思っていても口には出さないとか、ステレオタイプな論があるけど、本当はそんなことないんじゃないか。

むしろ「言葉」に関しては意外にストレートなこともあると思う。愛の告白だってそうだ。

この前も、ある街を歩いていて目の前に《好きです、この街》とだけ描かれた看板が現れた。

いきなりの公衆の面前で愛の告白。いくらなんでも大胆すぎる。誰がそんなに想いを募らせたのだろうか。

いや、街への愛があふれるのはいいと思う。だけどなぜ看板にするんだろう。それに、そもそもこの場合、いったい告白の対象者というか当事者は誰なんだという疑問が湧いてくる。

せめて「私、○○は好きです、この街」と書かれていたら、ああ○○さんはこの街が好きで、それを街の人にも開示したかったんだなとわかる。だけど主語がないままの告白は、目撃した側はどうしていいか困るのだ。

まったく関係ないのに落ちつかない気分になる。

もしかしたらせっかく勇気を出して想いを告白したのに、誰も自分が告白されてるとは気づかずに通り過ぎてるかもしれないのだ。せつない。

僕は看板の前で思わず立ち止まったけれど、残念なことに僕は「この街」でも「この街の人」でもない。宙に浮いた誰かの告白。なんだかいたたまれなくなってくる。

まあ、ほとんどの人はそんな感情にとらわれたりしないので、何も問題なく《好きです、この街》看板が佇んでいるのだと思うけど。

たぶん、日本の街でよく見かけるこの類の啓発看板(?)は、少し遊びが足りないからなんだろう。

同じ「愛の共有」でも、あの有名な『I♥NY』は、こんなふうに見かけた人を不安定な気持ちにはさせない。もちろんデザインの好みの問題はあるとしても。

2020年に91歳で亡くなられた、デザイナーのミルトン・グレイザーさんがタクシーの中で、あのロゴを思いついて封筒に走り書きしたというエピソードも、なんていうか「街の空気感」と溶け合ってる感じがする。

やっとの思いで《好きです、この街》看板の告白を振り切るように小走りに立ち去り、コンビニに入る。少し喉が渇く。すると、今度は《ゴミを捨てない あなたが好き!》というポスターにドキュンとする。

あまりにもストレート。いまどき、中学生でもそんなふうに告白しないと思う。

それにしても日本ってこんなに愛の告白があふれてる国だったのか。あらためて僕は自分の不明を恥じる。

だけど道行く人は誰も「俺もこの街が大好きだ!」「一生ゴミなんて捨てない! この街を大切にすると誓うよ」と、その愛を受け止めることもなく無反応に通り過ぎている。

街には今日も《好きです》の文字があふれ、僕を惑わしているというのに。