駅ナカコンテンツが多すぎると息苦しくなる
最近、東京駅が疲れる。信州と各地を行き来してるとハブ的なターミナルなので、利用しないわけにいかない。東京駅、好きなんだけどね。
駅が疲れるってなんなのか。人が多いのは多いけど、それは東京住みも長いので慣れてる。大きな駅は毎日が無言の祭りだから。
なんで疲れるんだろうと考えていて思ったのは「駅ナカ」の増殖っぷりだ。
横浜駅と並んで永遠に終わらない工事でお馴染みの東京駅だけど、工事が終わったんだと思ったら、だいたいそこは駅ナカになってる。
いや、そんなの当然だと思うよ。JR東日本にとって東京駅は資産なのだから。そりゃ「活用」するだろ。わかります。
だけどちょっと疲れる。
すべての空間、隙間を情報とお金につながるコンテンツで埋めようとしてる。してますよね。おまけに、あれ買えこれ買え、限定のとぐいぐい呼び込んでてもう駅なんだかどこなんだかよくわからない。
なんていうかコンテンツが多すぎて「無駄」がないのだ。
ベルギーのアントワープ中央駅も大きなターミナルで要素は多いけどそこまで息苦しくない。いい意味で空間の無駄遣いがちゃんとできてる。行ったことないけど。
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出羽守になるつもりはないんだ。だけど、あーなんかそういう「無駄」をうまくデザインする余裕というか成熟度は、まだ日本は浅いんだなと感じてしまう。
とくに何もないけれど悪くない無駄、本当の意味でのトランスファー(乗換駅)をデザインするのは東京駅だと難しいのか。まあ、人によってはあの密度が好きだし東京っぽいと感じる人もいるんだろう。
いまの京都駅なんか出来た当時は賛否両論というかキッチュすぎるという論調が強かったけど、あの壮大な無駄、大階段とかが「あー、京都に来た」の空気をつくりだしてる部分ある。
そう考えたら、どこまでも無駄のない駅ナカコンテンツで迎えられる東京駅も「あー、東京に来た」の空気をつくりだしてるのかもしれない。