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ちゃんと対話がしたくなる

対話がしたい。いや、そんなん特に目新しいことでもないじゃん。

まあそうなんだけど、実際に「ちゃんと対話する」って実は難しい。なんで対話は難しいのか。

そもそも対話は単なるお喋りではない。目的がある。というかクリエイティブな共同作業に近い。自分がいくら「対話したいな」と思っていても、相手がそのつもりではなかったら、ただ話しただけで終わってしまう。

対話することでその時間を使って「それまでなかったもの」が生成される。お互いが何か得られるのが対話。

一緒に創造する時間をつくっていくと言ったらいいのかな。

どちらかが一方的に言いたいことを言って、たまに相手が口を挟むだけでは対話になりにくい。相手と一緒に対話によって「創られたもの」がないから。

ここで言ってる対話はディベートとかとも違って、どちらか優劣を決めるものでもない。お互いフラットなのが前提。その上で、下敷きになってるもの、感じてること考えてること、そこからの行動とか見てるものに違いがあっても全然いい。

むしろ違うバックグラウンド、思考と発想の持ち主だから対話で触発がある。

「その発想はなかった」ってやつ。それって案外、言った相手もその対話をしなければ出て来なかったりすることもある。つまり、お互いの現状にアドオン(自分の持ってるものに拡張性が追加される)が生まれる。

リアルに人と会って対話する機会がここのところ制限されてるから仕方ないのだけど(文句言ってるわけじゃないです)、対話で自分が拡張されるのってなんか楽しくないですか? 単純に。

あと、オンラインではお互い「信頼貯蓄」が乏しい状態で何か話したり相手の話を聞かないといけないことが多い。元もとオフラインで積み上げてきた信頼貯蓄を取り崩しながらとかもある。

オフラインで日常過ごしたり何か共有してると、大事なことからどうでもいいことまで相手の振る舞いや意識、姿勢が情報として入ってくる。

あんなこと言っててもこんなこともできるんだなとか、こういう可能性持ってるんだよなが担保されてるから、対話も育みやすい。いちいち相手の言葉だけ捕まえなくてもいい。

オンラインでは言葉だけだから、どうしても言いたいこと言う、聞きたいことだけ聞くで「対話」まで至らない。システム的にオンラインでずっと向き合うのと、物理的な空間を共有しながら話すのでは入ってくる情報量も違うし、そもそもずっと「画面」と向き合い続けるのは疲れるから。

それでも、オンラインでの対話に可能性がまったくないわけじゃないと思う。

たぶん、それは画面を通しての「対話」と、それ以外のテキストでの対話(noteもそうだけど)の両方が相互補完関係になって生まれるんじゃないのか。そんなことをつらつら思ってます。