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誰のための言葉なのか問題

競泳選手の池江璃花子さん、タレントの堀ちえみさん。僕があえてここで名前を取り上げることなんてないのだけれど、病気を公表した人に向けられる「言葉」についてずっと個人的にも考えていた。

天野慎介さんの記事もそうだ。本来、病気を公表した人に第三者が何か「言うべきこと」「書くべきこと」なんて何もない。

幡野広志さんも「ガン患者に何と声をかければいいか?」という真剣な悩みに対して、「正解なんてない」「自分で向き合ってください」と誠実に答えている。

そのとおりすぎて、僕も黙ってうなずくだけだ。なのに、こうして書いているのは矛盾してる。わかっている。なぜなら、僕自身も「そのこと」に何年か向き合ってるからだ。

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病気を公表した人に関係ない人が「必ず治ります」「負けないでがんばって」とか「可哀想」とか安易な言葉をかけるのはなぜなのか?

じゃあなんて言ったらいいんですか? キレ気味に聞いてくる人もいる。そもそもなんで人は何か言いたいのだろう。

それもずっと考えている。

相手が心配だから、励ましたいから。それは嘘ではないかもしれない。だけど「励まして相手から、ありがとうと言われたい」「大丈夫って聞いて安心したい」的なことだったら、それは相手のためじゃなく自分のためだ。

私が苦しい、私が悲しい、私がどうしていいかわからない。だから病気の人に何か言葉をかける。

家族や友人、周りの人だって同じです。苦しいんです。だから声をかけて何がダメなんですか? 何も言えず苦しめというんですか? そんな意見もある。

わからないでもない。僕も身近に病気を抱えて生きる家族がいるから。

自分が苦しいとその苦しみを紛らすための言葉を探したくなる。でも、それはやっぱりするべきじゃない。相手のための言葉じゃないから。

僕も自分の家族に、いや家族だから安易すぎる言葉は言えない。

がんばってほしいなんて言いたくないし言えるわけがない。だからって、がんばらないでもいいなんて思うわけもない。

だからなのか、余命という言葉があっけらかんと本人たちの言葉で一桁の数字と一緒に出てくることが逆に深刻さを遠ざける。

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ほんとに、なんて言えばいいんだろう。わからない。わからないから、もう病気の話は向こうからしてこない限りこっちからしない。会えば病気のことより他の話をする。

愛する野菜の話とか、21年間生きて空に還った飼い猫からバトンを受け継いだみたいにやってきた8か月の仔猫(ほとんど空中を飛んでる)がやらかす笑うしかない話。

それでいいんだと思う。心配するのと他人の人生に介入するような勝手な言葉をかけるのはまったく別。

人の人生や病気にマウントするぐらいなら自分の人生をちゃんと生きてくれ。その方がいい。僕にできるのは、自分がちゃんと生きて余計な心配をしなくていいようにすることだ。

こっちもちゃんと自分の人生を生きる。その姿そのままでちゃんと寄り添えればいい。何か頼まれたときは応えられればそれでいいと思っている。

そうなんだ。ときには言葉じゃない言葉のほうが相手に届くときもあるのだ。