新潟の魚1

仕事だけして生きられるのか問題

東京は仕事に最適化された街だよね。誰が言ってたか忘れたけど、そんな言葉を聞いたことがある。

そうだよな。自分も東京にいたときはそれやってた。

端的に言えば、仕事はものすごおおおくしていたけど「生活」がなかった。生活がないってどういうことか。「サンマ」がないのだ。

サンマというのは、もちろんあのサンマ。秋になると(もう秋終わるけど)脂がのってじゅうじゅうと焼かれて殿さまが所望する、あのサンマが消える。

何言ってんだ? と思うかもしれないけど、仕事のために最適化された生活には「サンマ」がない。

なぜなら「サンマを焼く」のは非常に非効率だからだ。サンマを焼くとグリルが汚れる。匂いや煙も出る。掃除が大変だ。焼くのも気を配らないと焦がしてしまう。

「サンマを焼く労力>得られる成果」と考えると、ただエネルギー補給としての食事をするためにサンマを焼くのにかかる労力は割に合わない。

そんなにサンマが食べたければ、焼き魚になったものを買ってくればいいし、それだってスーパーに買いに行くために時間をロスするのだから、Uber Eatsで「サンマ塩焼き弁当」を頼めばいい。

ほら、そうすれば労力はほぼゼロで成果だけが得られる。もちろんコストはかかる。でも、そんなのは仕事をハードモードでやり続ければたいしたコストじゃない。

というかハードモードでやるからライバルがついて来られない結果を残せるのだ。

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このモードに入ってしまうと、自分でもよくわからなくなる。一時期、僕も仕事以外見えてなかった。

ずっと仕事だけ続けていられる。1カ月半で3冊の単行本原稿を書いたこともあった。いろいろとおかしい。

なんだろう。仕事から目を逸らしてしまうと、敵にやられる。弾に当たって負傷する。そうなってしまうと仕事ができない。だからずっと仕事のことだけ見続ける。それ以外のことはシャットアウトしないとできない。

いまでも覚えてるのだけど、当時仕事場と自宅だったマンションからゴミを出すために下に降りる時間すら「もったいない」と思うことがあった。やべぇやつだ。いかれてる。

平野太一さんの記事を読んでたら、その当時の感覚がぞわぞわと甦って怖かった。


ほんと、そうなんだ。平野さんも書かれてるけど、仕事に直結すること以外切り捨て、意味があるかないかだけで判断する人生を続けていくと、その先に待ってるものは虚無だ。怖い。

だけど、もっと怖いのはそんな「生活」でも人間はやれてしまうところだと思う。東京だと特に。

ハードモードで鍛えられた部分もあるし、一概に、そういう生活が「ダメ絶対」というわけじゃない。僕の場合は自分でフリーランスを選択して自分で請けた仕事でそれをやってたのだからセルフブラックだし、誰かに文句を言うようなものでもない。

結論を言えば、人間は仕事だけしていても生きていられる。

「生活」を可能な限りミニマムにしても生きられる。それはそれで、いまから思えば「よくやってたな」と思う。ただ、それは生存者バイアスが掛かってる話なので、人に勧めたりはしない。

僕も物理的に「生活」が「土」レベルからリアルにある場所に引越したから言える話で、もしあのままずっと東京で仕事だけし続けていたら、どうなっていたかはわからない。

もっと最強レベルに仕事だけできるマンになってたかもしれないし、人生がバグって致命的なエラーを起こしてたかもしれない。それは、ほんとわからないんだ。

でも、ひとつだけ言えるのは、こうやってnoteを書くことはなかっただろうな。いまのnoteには「生活」がある。それを大切だなと思う自分がいるってことだ。