書けるけど書けないのサインが出たときは
プロだからいつでもどこでもどんなときでも「書ける」は、半分正しくて半分正しくない。
たしかに書く必要があれば書くことはできる。打席に立っているのに「ボールが来たらどうしよう……」ということはない。たいていのボールは打ち返せる技術というか経験は持ってる。
そういう意味では、いつでもどこでもどんなときでも書ける。
のだけど「書けるけど書けない」こともある。狭い意味での仕事として書くではなく、もっと根源的な「書く」という部分で。
書こうと思えば書けるけれど、それは本当に自分が書くべきことなのか。大げさに言えば、その言葉を発芽させて光と水を吸収して育てたいものなのか。
そこのイメージがないものは「書けるけど書けない」になる。
それは書き手として駄目なことだとは思わない。
むしろ「書けるけど書けない」がちゃんと自分で自分に知らされるうちは健全だとさえ思う。
本当は「書けるけど書けない」なのに、それが自分でもわからなくなって無理に書いてしまって、自分が本当に書きたかったことがわからなくなるよりはいい。
打てるけど打てないボールを無理に打って、自分のスイングを崩さないのと同じように。