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文章の「いい違和感」は捨てなくていい


きょうは「書くこと」についての短いメモ。最近、つらつらと考えている。違和感について。

体調とか人間関係とか、環境とかの「違和感」は結構センシティブな問題をはらんでたりするので、基本、違和感は解消すべきものとされてる。

文章もそうだ。ビジネスに近い文脈の文章、あるいは「情報」としての価値が大事になる文脈では、文章の違和感はあまりよろしくない。ときには書き手と読み手の双方に致命的なことにもなる。

じゃあ、文章の違和感ってまったくの悪なのか。

違和感なくするする読める文章もあれば、いろんな違和感を感じながら読む文章もある。概して後者は「読みにくい」「読まれにくい」という評価になる。

のだけど、中には「違和感」があるのに、妙に引き込まれる、何かが入ってくる、自分の細胞が描かれてるテキストに反応して食いついてるのがわかるような文章もある。

後味が悪い系の違和感とかではなく。

それこそが文章の味の要素なんだろう。文章は口に入れるものでもないのに「味わう」と表現されることもある。

いったい、文章の何に「残る味」を感じてるのか。食べものでいう「旨味」の要素ももちろんだけど、じつは案外、そうではない雑味みたいなものに、なんともいえない味を感じることもある。

この話は、この前の《ことばのアトリエ》でも話題になった。

で、大事なのは「読まれよう」とする文章ほど、この「違和感という雑味」が消されてというか捨てられて「きれいな文章」になってしまうことがあるということ。

そりゃ、読まれるのも大事なのだけど「読まれたけど残らない」文章が量産されてしまうのも、それはそれでせつない。

昔だけどインストゥルメンタル・アコースティック・ギターデュオのゴンチチさんのおふたり、ゴンザレス三上さんとチチ松村さんにお話しを伺う機会があった。

なんていうか、取材でもおふたりが奏でられる音楽そのままの空気で、終始優しく味のある言葉を奏でていただいたのだけど、そのとき仰ったことでいまもずっと残ってるのがある。

ゴンチチさんがオーケストラと競奏されたときのことだ。レコーディングした音をあらためてチェックすると、ところどころ音に「抜け」があった。本来出ているはずの音がちゃんと出ていない。ピッチに微妙な狂いがあったり。

違和感だ。だけど、その違和感が妙に艶っぽく感じたのだという。

プロの耳でなければ聞き分けられないレベルの違和感。補正しようと思えばできるのだけど、結局、その違和感も含めての味わいが心地よかったという話。

文章も同じなのかもしれない。自然に何かに向かっていく中で同時に生まれる違和感は大事にしたほうがいい味が残るのだ。