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過去の未来のアイルランドに飛んでった

不意に変な考えが降ってくることがあって。

未来が先にあって過去が後に来たらどうなるんだろう。あり得ないことなんだけど。でも、ほんとにあり得ないのかな。

たとえば、もうすぐ冬至。科学的には北半球の日本で一年で太陽の南中高度がもっとも低く、昼間の時間が同じくもっとも短い。そういうふうに学んできた。

じゃあ、過去に戻って大昔の人も、そんなふうに知識としての冬至を知ってたんだろうか。

自然科学とかの専門家ではないので勝手に思ってるだけだけど、昔の人にとっての冬至などの暦とか、そこにまつわる事象の捉え方は、知識というよりなんていうかもっと身体的、精神的だったような気がする。

アイルランドの有名な先史時代の遺跡「ニューグレンジ」なんかは、冬至の太陽が昇るわずかな時間だけ、古墳の外と中を結ぶ道に太陽の光がまっすぐ照射するようにつくられてるらしい。

冬至の太陽には新しい命が宿ってくるという感覚(スピ的なのでもなくもっと根源的な感覚)を大昔の人は持っていて、古墳に祀られた人物に毎年新たな命をもたらそうとしたのかもしれない。

こういうのはアイルランドに限らず、日本にもあるし各地にある。単純にすごいなと思う。

なぜって、その時代、まだインターネットもなくて(たぶん)情報としてそういうのを共有してたわけでもないのに、時代も地理も隔てたところで同じ感覚を持ててたことが。

祭事的なことだけでなく、命に恵みをもたらす食べものにとっても冬至は重要な節目であると捉えてるのとかも。

いまでは、そういう自然の節目は「言葉」が先に来る。冬至だから、こういう行事あるなとか、日が短いんだなとか。

だけど、もしも未来が先にあって、つまり「いまの人」が過去のその時代を先に生きてたら、何かを身体的、精神的に感じて「冬至」という言葉を生むことができたんだろうか。わからない。何も残せてない可能性もある。

無意味な想像なのはわかってる。でも、ちょっと考えてしまう。