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節約の時代の終わり

平成が終わる祭りが各方面で行われている。何にでも「平成最後の」をつければとりあえずコンテンツになるから、まあ便利なんだろう。

個人的には平成についてエモい風に思えば、そうも思えるし、西暦で考えればとくに何も、とも思える。つくづく暦ひとつとっても異なるものをなんとなく使い分けて生きてる日本人って不思議だ。

で、あえて「平成終わり」で何か思うことは? と問われたら、なんとなく平成は「節約の時代」だったなぁって気がする。しませんか?

バブル崩壊以降の失われた何十年、平成不況とか氷河期とか。字面から見ても、どう考えても拡大よりは縮小にベクトルが向いてる。「節約」というキラーワードはそんな時代に似合い過ぎた。

「節約術」とか「コスパ」「時短」がふつうに日常の言葉として使われるようになったのは、明らかに平成だと思う。

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「○○をなんとかしたら○○の代わりに使えてお得」とか「○○を○○したら一瞬で○○になる驚きのワザ」とか。ほとんど『伊東家の食卓』の「裏ワザ」みたいな世界だけど、あの番組もそう言えば平成っぽい。

なんだろう。そういう節約ハックも、おもしろい一面もあるんだけど、そこばかり浸ってると「いい無駄」や「本物」から遠ざかってしまう。

もちろん、ほんとに渇水のときに「水を節約」するとか、べつに買わなくても困らないものは買わないとか、そういうのはそれで大事。

だけど、何でも節約をベースにしてしまうと、生きてることまで節約につながる気がして個人的にはなんだかつまらなく感じるのだ。

少しでも節約して、無駄なことは減らして、本物の代わりに何かを代用してという生き方ばかりになっていくと、本当だったら味わえるものとか、刺激される感覚とかがこぼれていく。

そうやって残った人生が「あー、なんか満たされたなぁ」と思えればいいんだけど、たいていは節約したわりには満たされないのだ。

第三のビールを何本飲めても、クラフトビールを一杯だけでも飲んだときの身体が喜ぶ感じにはやっぱり及ばないから。