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ヤギは海を渡るのか問題

どんな世界でも所有争いはある。気持ちの中の縄張りも含めて。

先住民と開拓者。古参と新規。コアなファンとにわか。それぞれが自分の領分とか、自分の環境の快適さを守る主義主張とかを持っていて、そこに侵食してくるものとぶつかったり、直接ぶつからなくても違和感を覚えたりする。

noteの街でもあるのかもしれない。「あるのかも」みたいにふわっとした書き方してるのは、自分ではそこまで意識してないから。

けど「ある」のはわかる。さすがにそこまで鈍感ではない。

なんかね、どうしたってこれだけnoteの街が大きくなると(この話もう何回かしてるかもしれない)、それはいろんなことが起こるしいろんな人がいろんなことを感じることも増える。そんなものだと思う。

大都会で「きょうは誰ひとりなにも思うことがなくみんな平和でした」という日がないように。

第三者からみれば、僕だってどれかの種族に分類されるのかもしれないし、それもわかるのだけど。

人間の心理として、自分が気に入ってる世界があって、それとは異なる空気や文化を持ち込む人たちに違和感、居心地悪さを覚える。これも、そういうものだと思う。

でもnoteの街は誰のものでもない。形而下ではnoteの現実的な所有者はnote社だ。

で僕らはユーザーとしてnoteの街を行き交ってる。冷静に考えたら、現実には所有しない街の中で僕らは「居心地」「コンフォートゾーン」みたいなものを真剣に感じ取ってるのだ。これってすごくふしぎだ。

サービスが浸透拡大する中で、形而下で収まらない形而上の世界にまでユーザーの意識が拡張されたのかもしれない。自分の場所のような。もちろん、そうなるデザインがされているnoteの設計思想が優れてるというのもある。

いつも思うのはどんな人間がどんなものを所有してたって唯一、みんなに平等に訪れる死の前では、何も所有できない。この事実、すごいよね。いや、中にはそうなったって所有し続けたいって人もいるかもしれないけど。

現実世界でも最初に誰かが見つけて拡大したものが既得権として、なんとなく偉い力があるとされてるけど、ふーんと思う。

宇宙から見れば、自然や生き物たちから見れば人間が勝手にそう決めてるだけで本当は誰のものでもないんだよな。ほとんどのものは。怪しい話じゃなくてさ。

自分はいろいろ所有しているようで、実は何も所有してないのかもしれない。そう思えば、力が抜ける。

もちろんnoteの世界が「誰のものでもない」とは思わないけど、せめてnoteの世界では現実世界では難しい、誰のものでもないnoteの生態系を楽しめればいいなと思うんだ。

ここでは僕だって蟻にもなれば、雉にもヤギにも(これはデフォルト)、スナメリにもなれる。気が向いたら散歩もする。

で、害がなさそうなら、あらヤギが泳いで島を渡ってるねーと生温かく「いろんな生きものがいるねぇ」と横目に見つつ、たまには一緒に道草したり、それぞれの世界をちゃんと楽しめてればそれでいいんじゃないかって。