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料理が苦痛だ

という本がある。なかなか芯を食ったタイトルの本だ。よくこのタイトルで企画を通せたぜと、そっちのほうも気になるけどそこじゃないし本の紹介をしたいわけじゃない。

えっと紹介したくない本という意味ではないので念のため。

「作らない料理教室」を主宰する人気カフェオーナーの著者が「どんなときも料理をつくり続ける苦痛」をどうにかするための具体的方法を「つくらない料理教室」を通して伝授しているらしい。なるほど。

世の中には「時短おかず」「忙しくても3品これだけでOK」「簡単手抜きでもちゃんとした料理が」みたいな料理本とか料理記事はいくらもあるけど、そもそも料理が苦痛なんだよ!!!したくないんだよ!!!という需要には応えられてない。

だって、いま出回ってる簡単料理本とか記事は結局、料理してよかったねがゴールになってるからだ。じゃあそもそも料理が苦痛な人のゴールってなんだろう。

ゴールは、できれば「料理」をしないで食事をなんとかするだろう。じゃあ外食? デパ地下とかスーパーで惣菜買ってくる? お弁当? コンビニ飯? と脊髄反射で考えてしまうけど、そういうことじゃない。

料理が苦痛だけど「なんとかしなくちゃいけない」のはわかってるし知ってるのだ。苦痛だからって毎日外食とかコンビニで済ますなんてできないし、それをしたいわけじゃない。なんとかしたいのだ。

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ここで男性脳が言ってしまいがちなのが「なんでもいい」「じゃあ簡単なのでいいじゃん」なのだけど「簡単な料理」なんてこの世には存在しない。ここテストに出るらしいから。

食材を考え、必要なものを調達し、料理の手順を考え、料理して食べれる状態にして、食べた後の片づけまでが料理。料理はどんなものでもこのフローを含んだ料理なのだ。

簡単でなんでもいいものとは、生卵を割ってそのまま醤油をたらして食べるぐらいのものを言う。それすらも北大路魯山人なら料理認定するだろう。

まあ、それは極端だとしても「料理が苦痛だ」というタイトルの本がそれなりに支持される状況って、どうなのか。

個人的には「生きることは食べること」だと思ってるし、食材をつくったり買ったり料理することも生き方の中に入ってくるのだけど、ときには料理が苦痛になりそうな状況だってもちろんある。メンタル的、体力的、仕事の状況的いろんなものが絡んだときに。

そんなときはもう、まちがいなく適当だ。カップヌードルに適当なちょい足しをしても「なんか思った以上においしい」と思えればそれでいいときもある。あるいは、もう何も考えずにつくれるような適当に炒めてご飯に乗せた丼とか。

で、そういうのをとくになんとも思わない。すごい手抜きだとも、当然だとも思わない。ただ、そういう日もある。それだけ。

べつにそれを毎日続けたいわけでないし、状況や気分が変われば、料理だって変わる。そこにどう持っていくかは人それぞれで、こうしなければとか、こうすればいいなんてものもない。

みんなそれぞれにいろんな意味で自分のリズムを持ってるし、そこのリズムを狂わせてまでつくらなければいけない料理なんて(職業的なのを別にすれば)ないと思う。

リズムが乗らない日は乗らないでやれる自分だけのプランBを発動させる。とりあえずその日をなんとかするために。

という前提があれば、すごく料理を目の敵にすることも過大評価することもなくいられるような気がする。やっぱりフラットに考えて「食べる」は楽しいっていうのはあるんだから。