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文才ってなに? 書くことで悩まない人が地味にやってること

何書いていいかわからない。書くことが思い浮かばない。note界隈でも、よくそんな呟きを目にする。

そうだよなぁと考える。僕の場合、ある程度仕事の縛りがあって「書け」という圧力(悪い意味じゃないです)が常時かかってるから、良くも悪くもいつだって書こうと思えば書ける。24時間静かにアイドリングしっ放しの何かだ。

もちろん、書きたいかどうかは別。特にnoteはほとんどの場合、狭い意味での「仕事」ではないんだからべつに書かなくても現実的な問題はない。

なのに、やっぱり書きたいのだ。じゃなければ、何書いていいかわからないとか、書くこと思い浮かばないとは思わない。大前提として、人はそれでも何か書きたい。

じゃあ、どうすればいいのか。

今日一日も、ここ最近も、とくに自分の周りでは耳目を集めるようなトピックもなかった。というか、そもそも誰も自分のことなんか関心ないじゃん。そう考えてしまったら、ほんとに何も書けなくなる。無だ。

僕もそうだけど、そんなに毎日「うぉ」と思うようなことなんて起こらない。ほぼ淡々と日々は過ぎてゆく。

いや、ほんとはカラフルでドラマティック人生を送ってるように見える作家だって、日常レベルではとてもふつうだったりする。

村上春樹さんがアメリカの大学で創作科のクラスを教えていたとき「どうしたら小説を書けるようになるのか?」という学生の質問にこんなふうに答えている。


「書けないときにはべつに無理に書かなくていいんじゃないか」
「何を書けばいいのかを発見するために、僕には七年という歳月とハード・ワーク(自分の店を経営して朝から晩まで働いてたこと)が必要だったんだよ、たぶん」
「とにかく実際に生きていくしかないんだろうね」
                『やがて哀しき外国語』より引用


大変なことしかない日々も、つまらない日々も、ものを書くという点では並列だ。どっちが上も下もない。

ただあるのは、何かを書きたいという人間が、目の前の世界とそこに生きる自分とどう向き合うかだけだと思う。

何もないと思えばほんとに何もなくなってしまう。世界は自分次第で消すことも面白がることもできる。どこかで聞いたことのあるフレーズだけど、それはある程度真実だ。

         ***

SNS界隈でも文才がある人ってうじゃうじゃいるけど、そういう人がすごいスペクタクルな日々だけを生きてるかというとそうとは限らない。たとえば@ajitukenorikiti(とけいまわり)さん。


こんななんでもないひと言だって、世界とどう向き合うかでそこからいろんなものが生まれる。

もし、この話をそのまま書いたって、ただの報告だ。アイロンがなくなった。知らんがなになってしまう。

そうじゃなく、家出するならするでちょっとひと言あったっていいだろ。ていうか勝手に家出するなアイロン。

とけいまわりさんの「なんでもないひと言」が物語になってるのは、ちゃんと「書く人の世界との向き合い方」になってるからだ。


書く人の世界との向き合い方


1.事実からちょっと離れろ。俯瞰するっていう表現も同じ。人間関係でも何でもそうだけど、あまり目の前にありすぎると余計なこと言ったり、感情が出過ぎたりするから。


2.目の前の事象に別人格を与える。すると勝手にそいつが何かし始めるから。そこを観察する。見失わないように。


3.別人格を見てる自分をさらに客観的に書く。それだけのことで「書くこと」が生まれる。ていうか書きたくなる。

我が家のアイロンがいなくなって2週間が経つ…
アイツ、今どこで何してんのかな…

に当てはめて分解してみると「2週間」経って生まれるものを言葉にしてる時点で「事実からちょっと離れろ」をクリアしてる。

アイロンが別人格の「アイツ」になってる。「今どこで何してんのかな」で、別人格になったアイロンを遠い目で見てる自分を描いている。

そういうことなんだ。どうでもいいこと(褒め言葉です)が、それだけでちゃんとエモい話になってる。

それでもあなたは「何書いていいかわからない。書くことが思い浮かばない」と思うだろうか。

わかってもらえたらうれしいんだけど、どんな分野でも「書く人」はこういう作業を意識的、無意識的にやってるし、やり続けてると、たとえ書かなくても書くべきことがある人になれるから。

上からとかじゃなく、僕自身もそう思って生きてるし書いてるんだ。