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逆に「本」は進みすぎてまだ使われてないメディアと考えてみる


7人に1人。これ何の数字かと言えば、ある日の山手線の座席に座ってる人で本を読んでた人。ちなみに山手線のメインの座席は7人掛けで、残りの6人はうつむいてスマホをいじってるおなじみの光景。

僕は車内で立っていて、何の気なしにそんな光景を眺めながら、ふと思ったんです。

あれ、これもしかして本というメディアが進みすぎてるんじゃない? と。

昔、イノベーター理論であったあれです。スマホは既にレイトマジョリティまで取り込んだとしたら、本はまだアーリーアダプターにも届かないくらいの存在なのかもしれない。

本なんて絶滅危惧メディアだと信じてる人には、何言ってんだって話ですが。

ちなみにその日のスマホ組は、ゲームが2人、SNSが2人、漫画が1人、ファッション系サイトを開いてる人が1人。たまたまそうだったのかもしれないけど、平均的にはそれぐらいの比率になるんじゃないのかな。

べつにスマホを覗きこんでたわけではないですよ。視界に入ってくるので。
で、なんでだからって本が進みすぎてることになるのか。

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乗り物でスマホをいじってる世界って、基本、消費なんですよね。インプットやLINEのラリーはするけど、わりとその場で時間を消費しておしまい。とくに短時間の移動でスマホ使って生産活動って、ほとんどの人はしないですよね。

その中で本を読んでる人は、何か自分の課題やよく生きることに対するインプットをしながら、同時にスループットも働かせてる感じがします。本をただ読むだけじゃなく自分のものにするための「意味づけ」「価値づけ」の作業も行ってるんじゃないかなぁ。

ただ消費しておしまいじゃなく、本を読みながらバックグラウンドで思考を整理したり構造化して、その人の未来の時間を組み立ててる。

小説的なものを読んでたって、そこでは想像を働かせて物語の世界を自分の脳内につくりあげるというクリエイティブな活動をしてますよね。

そんなことを思うのは、自分が本を書いたりつくるのに関わってる側からのバイアスかもしれないですが。

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本を有機的なデバイスとして持ち歩く

いやいや、私は乗り物でスマホいじりながら生産的な活動をしてるって人ももちろんいると思います。僕も、それは否定しません。

何かの情報がインプットされて、そこから思い浮かんだことに対してその場ですぐに検索をかけて調べることだって生産的ですからね。ただし、この場合の欠点は「検索可能」なネットワークとデバイスを自分が持っていないといけないということ。

スマホもなく何のネットワークも存在しない状況にポツンと置かれたら、途端に「交換記憶」は使えなくなってしまう。

その点で「本」は、いつでもどこでも自分そのものと一体になって(本と自分が有機的なネットワークで結ばれたデバイスになるイメージ)、検索をかけたり思考整理をしたりして新たなアウトプットのための生産活動ができる。

これって、よく考えたらすごい!

(全然関係ないけど春ですね。外で本読みたくなります)

もちろん、スマホで時間を消費して何が悪いってことでもないです。僕だって「ふーん」ぐらいの感じで電車の中で情報をめくったりスワイプしてる時もありますし。

ただ、それでもあえて、みんなが消費してる時間の中で「未来の自分」をつくる作業(意識はしてないと思うけど)ができるメディアとして「本」は逆に進んでるっていう考え方もあるんじゃないのかなと思った春のはじまりの日。

んー。デジタル爆発しろとかアナログ絶賛派でもないけど、なんかもっと本質的な本の価値が出せないかなと日々考えてます。

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