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なぜ「働き方改革」にうんざりするのか

たぶん「それ、もういいよ」という人が多いんじゃないのかな。働き方改革のこと。

4月から「働き方改革関連法」が施行されて、よかったよかったこれで薔薇色の世の中だとは、たぶん誰も思わない。もちろん、過労死問題だとかに絡んだ部分では、こうした法整備も一応意味があるので念のため。

そういうことではなく、残業を減らすためにもっと効率のいい働き方とか、生産性、リモートワーク、ワークライフバランス、業務効率化ツール云々が仕事と一緒に「降ってくる」状況が、なんだか「もういいいよ」な気分なんだと思うんです。

一つひとつのワードは、そのとおりで、べつに悪いワードではない。なんだけど、どうもしっくりこないんですよね。いったい、なぜなのか。すごく個人的な考えだけど、いまってなんだかいろいろ「分けすぎ」じゃないですか。

仕事をしている自分とそれ以外の自分。仕事で付き合う人とそうでない人。効率のいい働き方やツール、システムとそれを選択しないといけない自分。なんでも分けて考えるのがベースにあるから、なんだか面倒くさいんじゃないかなと。

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そもそも、日本って「あいまい」な文化があるわけです。少し視点を引き上げて考えると「個人と神」みたいな「二分法」で考える西洋的価値観(すごくざっくりした意味合いですが)はもともと日本にはなかった。

どちらかというと、日本は自然がベースで「八百万の神」のように、仕事の現場も含め、自分が重要だと考える場所、瞬間ににそれぞれ神が宿る。なんていうか、日常生活ベースでは、どこで何をしていても「ここが自分にとっての神聖な領域」「いま大事なとこ」って決めれば、それでよかったんです。

わざわざ、ワークライフバランスみたいに「ここまでは、きちんとやって」「ここではスイッチを切って」みたいに分けなくても、どこでも自分を保てた。どこからどこまでが大事な仕事をしている自分、ここからはそうでない自分なんてないんですよね本当は。

いつだって大事だと思えば大事だし、遊びもあると思えば遊びもある。それが自然だから、無理に「働き方改革」とかこねくり回さなくても、ごく自然にバランスが取れる。

むしろワークとライフのバランスを取らないといけない、とか言われるほうが現実的に「そのための負荷」がかかることがあるし、むしろストレス。

ワークの中にライフがあってもいいし、ライフの中にワークがあってもいい。そのほうが案外日本人には馴染みやすい気がします。もちろん、そこでの報酬のあり方とかOKRのような目標設定・管理の共有は考えないといけないけど。

もっと言えば21世紀に入ってからより目立ってきた「情報経済学」的に考えても、もはや昔の20世紀のような「情報の非対称性」も薄れ、仕事や情報を与える側、受け取る側の関係性もあいまいになってきてます。

なんならユーザーが一緒にメーカーとモノやサービスをつくって利益(広い意味での)をお互いにシェアする時代。なのに「仕事」の自分はここまで、とか分けて「働き方改革」をやってると、いろいろ無理があるんじゃないのかな。