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自分から降りるくせについて

ふつうはしないよ。

その声には、いくらかの蔑みと呆れが入っていた。

そのとおりだよな。味もわからなくなったハイボールを飲みながら、僕も同意する。昔の話だ。なんでそのくだりになったのかわからない。まあでも、飲みながらの話なんてそんなものだ。

僕が元もといたメディア系企業の制作ブレーンをやってたときのこと。

制作ブレーンは外の人間なんだけど半分「中の人」みたいな関わり方で仕事をする。一緒にクライアントに営業にも行くし、クライアントとの打ち合わせやなんやかんやもする。

外の人間だけど、仕事のクオリティや貢献度などで定期的な査定もあるという独特な関係性だった。いまはもう組織も仕組みも違ってるけど。

まあそんなわけで、ブレーンとして担当していたクライアントの仕事を「降りた」という昔の話に、ある人から「ふつうはしないよ」と非難されたのだ。

べつに、なにかトラブルがあったとかではない。

むしろ逆で、僕が担当させてもらって中のディレクターと一緒につくったクリエイティブ(ネイティブアドや学生向けのサイト、冊子など)は、設定していた指標もクリアしてたし、その効果やクオリティもクライアントの担当者からも社交辞令ではなく評価してもらってた。なのに。

自分でもあほだよなと思う。そのクライアントは上場企業で、まあ業界でも独自のポジションを持っている。

ふつうに考えれば、そんなクライアントを担当させてもらえてるのは「いい話」なのだ。

クライアントの担当者もその上の人たちも、すごく「地頭のいい」人たちで一緒に仕事をするのも(要望は高いけど)おもしろかった。

だけど、あるとき自分から降りた。4年ぐらいずっとやらせてもらって関係性もできていて、別の媒体の編集者が困っていた企画の話を振っても「ふみぐらさんが書いてくれるならいいですよ」と言ってもらえてたのに。

ある人から見たら「クライアントの信頼を裏切る行為」「無責任」と言われたって仕方ない。まあ、そうだろうな。

もちろん、降りたからって途中で投げ出したとかではなく、ちゃんと担当させてもらってたものはやり終えて次にもつなげた。

たぶんだけど、自分の中に「どんな関係性も永遠ではない」というのがベースにあるんだと思う。ごく一部の関係を除いて。

飽きるとかではない。評価されると降りたくなるのだ。これは僕のどうしようもないバグのひとつなのかもしれない。

ふつう(ふつうの多用はあまりよくないけど)は評価を求める。されないよりはされるほうがいい。だけど、ずっと「評価がある」は不自然なのだ(個人の感想)。

べつに、なあなあになってるわけでなくても、安定した評価はどこかで危うさを秘めていると感じてしまう。

これも自分にもっと徳や能力があって、安定した環境でも新しいものを期待をいい意味で裏切るものをクリエイティブできればいいんだろうけど、まだ僕はそんなレベルじゃない。

究極的には「自然が先生」なので、自然界の新陳代謝みたいに、一見、安定しているように見えてじつはすごい数の細胞や微生物が入れ替わってるのが理想。

人間の皮膚細胞が一日に約50億個(1時間あたり約2億個!)古いものは剥がれて垢になって新しくなってるみたいに、新しさと安定が一緒になればいい。

そう考えると、僕が自分から降りるくせがあるのは細胞の仕業なんだろうか。