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なんで人は文章を書くのだろう

仲さんのせつない言葉を読んで考えこんでしまった。

ちゃんとは読まれないかもしれない。それでも書いておきたい。そのどうしようもない気持ちはなぜ起こるのか。どこから来るのか。

もう散々言われてきたけれど、べつに文章を読まなくても書かなくても生きていける。何かを書く人(僕もだけど)は言葉や文章を水や食べ物のように、なくては生きていけないものと同列で扱ってるふしがあるけどね。

そもそも、いまは「読む人」が不足している。note界隈の人は比較的文章を摂取するけれど、世の中的にはそうじゃない人のほうが多い。

というのは前提の話で、もっと個人的な次元でも「読まれないかもしれない」と思っても文章にしたくなることがある。どうしようもなく。

なんでなんだろう。ずっと文章を書いて生きててもいまだに思う。壮大な自己満足なのか? ちがう。

ちゃんと生きてる人がこれからも生きるために言葉と文章を持つのだと思う。暴言かもしれないけど。

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僕が尊敬する演劇界の指導者がこんな言葉を残している。

「役を演じるのではなく、役を生きなさい」

ちゃんと生きたいから人は文章を書く。ちゃんとって品行方正にとかではなく。

どんなに歪でもジェットコースターでも、とにかく自分の人生を生きる。手触り感をなくさずに生きたい。

どう思われてもどう呼ばれたっていい。自分で手に入れてきた自分の人生なんだ。失いたくない。適当になんかしたくない。どうしようもない人生を愛してるのだ。だから書く。

また意味のわからないこと言ってるかもしれない。そういうとこだよ。わかってる。だけど、それが自分の人生とかいう乗り物だから。ポンコツだし、ときどき「なんだよ!」と思うこともなくはないけど自分にはフィットしてるから乗り捨てたくないんだ。

どこまで行けるのか、どこに辿り着くのかもよくわからない。乗り心地もそんなに上等じゃないさ。でもまあ大切なんだ。

走りながら見えるなんでもない景色、感じる風、交差する誰かの営み、いのちの匂い。どれもが抱きしめたくなる。

Fun to lifeだ。

だから文章を書く。大切なものを大切だと言える人生のために。壊れそうだけど愛おしいもののために。

なんで人は文章を書くのか。仲さんの文章へのアンサーにもなにもなってないんだけど、一瞬、すれ違って手を振ったみたいに書いておくよ。