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死ぬときはゼロがいい

※新年早々「死」とかの絡んだ話は読みたくない人もいると思うので、その場合はそっとページを閉じてもらえると幸甚です。


わりとしょっちゅう死を考える。希死念慮とかではなくて。

ちゃんと生きたいからちゃんと死を考える。誤解されがちなんだけど。

「よく生きることは、よく死ぬことでもある」とは、宇野千代先生の言葉だけど、その意味はすごく伝わってくる。

べつに目新しい話でもない。レジェンドクラスの人は、たいていそういった「死」に関する名言を残されているし。

でも、やっぱり「生きてることは当たり前」ではないなと思う。新しい年の空気を感じると余計にそう思うのかもしれない。

すごくすごくフラットに、いろんな前提を取っ払って考えたとき、どうして「死」がこんなにタブーな風潮なんだろうか。人がちゃんと生きるために、ちゃんと死を考えるのは本来セットでもおかしくないはずなのに。

例の小籔千豊さんの「人生会議しとこ」ポスター。ちゃんと死ぬことを考えることすらすら考えてはいけないみたいだ。そのほうが苦しくないか。

「死を連想させる」とか「死を取り巻く現実の患者さんや家族に寄り添ったポスターではない」というクレームでポスターは排除されてしまった。

たしかに「配慮」は足りなかったんだろう。いまはセンシティブなテーマを扱うには全方位の配慮が必要だから。

だけど、本質はそこじゃない。

養老孟司先生も仰っておられたけど、死を不自然に遠ざけたり、死を忌み嫌ったり、逆に自分で死を選んだりコントロールしようとしたりすることが、かえって死を辛いだけのものにしているんじゃないかと。

死は見えない風のように常にある。メメント・モリだ。凪の穏やかなときも嵐のときも、そこにあることには変わりがない。

遠ざけるのでも、必要以上に近づけるのでもなく、ただ「いつもあるな」とフラットに思うだけの感覚。個人的にはだいたいいつもそう感じてる。

だから、どう生きたいかもいつも考える。

プラスに何か持ちすぎて面倒な想いをして死にたくないし、何か足りなくても嫌だ。どっちにしても悔やみながら死にたくない。

死ぬときはゼロになるような生き方。そこにたどり着きたくて、きょうもこんな文章を書いている。

多くの人に届けとも思わないし、誰にも読まれなくてもいいとも思わずに。