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振り逃げで生きている

そのとき、僕は追い込まれていた。おじさんの好きな喩えをすればツーアウト、スリーボール、ツーストライク。もう、あとがない。

僕の勤めていた会社にはクオーター(四半期)毎の人事評価制度があった。

そのクオーターでのチャレンジングなゴール設定を上司のマネージャーとすり合わせ、チームと個人の両方の軸で何をどれぐらい、どのように達成したかをプロセスと成果を含めて評価する。

まあ、べつに組織に属して働くのであれば方法論の違いはあっても別にめずらしいものでもない。組織は常に人を評価してその中身を最適化しないといけないからだ。

わかってることだけど、そもそも基本的に僕は組織に向いてない。

向いてないのになんで採用されたのはいまだに謎なのだけど、何かしらの枠が空いてたんだと思う。あるいは、たまたま採用担当者の気分がMaxで最高だったのかもしれない。

企業によっては自分たちの求めるジョブ・ディスクリプションやカルチャーとのマッチングのど真ん中の層も採用するし、あえての外しで異質なタイプを採用してミックスする場合もある。最適化はしないといけないけれど同質化も避けたいのだ。

これはあとから採用関連の仕事(いまはほとんどやってないけど)にも関わるようになってわかった。

組織に向いてないといってもチームで仕事できないとか、そういうことでもない。先輩や上司にパスを出したり、逆にパスを受けてちゃんとゴールさせることもできるし(もちろんいつもいつも完璧ではない)、それが嫌いというわけでもなかった。

なのに向いてない。たぶんそれは「評価」がついてまわるからだ。

最初に書いたように組織では評価は避けて通れない。古くは成果主義からノーレイティングなんかのアップデートされたものとかいろいろ。そこに対して異論はない。

ただ、個人的にどうしても「評価」へのコミット度合が低いのだ。評価されてもされなくてもいいからちゃんとやれればいいというよくわからない考え。

評価のためにやっておくとか、評価のためにやらないとかをしない。そんなふうに書くと「なにカッコつけてんの?」と思われること山の如しなのだけど、実際そうだったからとしか言いようがない。

困るのは上司だ。こういうやつを評価しないといけない。面倒くさい。申し訳ありません。

組織において幸せなのは「きちんと評価されたい」人と、「きちんと評価したい」組織や上司の組み合わせなんだろう。どちらかが「そうではない」場合はお互いに不幸なことになる。

で、僕の場合も仕事をして評価されるほど(この書き方も自分でカチンとくるけど)逆に、うまく呑み込めないものが溜まっていった。そういう意味で追い込まれてたのだ。

それでも組織の打席には立ち続けたので、最後は追い込まれてからの振り逃げみたいな感じになった。結局、塁には出ている。ただし、フリーランスとしての出塁。

すごいきれいなヒットを打てたわけでもないけど、いまとなってはそれで良かったんだと思う。

まあだけど、フリーランスになったからといってまったく評価と無縁というわけにもいかない。

それでもある種、純粋に仕事(もちろん、そこにはいろんなスコープが含まれる)だけで評価される(評価のための~をやらなくていいし、やる意味もあまりない)のはやっぱり自分には合ってるんだと思う。

究極的には「評価するの忘れてた」ぐらいの何かになって溶けてしまえればいい。

という、まとまりもない話。