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もし相方が海外起業をしたい。と言いだした時によむnote①

はじめまして。ふみふみ(@fumifumi2fumi)です。
今後、グローバル化がすすむにあたり、
もし相方が「起業してみようかな・・・」と言ったら、
あなたはどうしますか?

‥反対する?‥冷静になって?と再度かんがえてもらう?
それとも、
・・・やってみたら‥?背中をおしますか?
私は後者を選びましたが、答えはひとそれぞれだと思います。

本日の目次
1,noteを書くに至った経緯
2,改めて自己紹介
3,お風呂とお金はないけど、みんないる
4,色黒ゴリラスイマー、海外へ憧れ、夢やぶれる
5,語学ダメ、人脈なし、スキルなしの私が香港に渡った理由

②に続く

1,noteを書くに至った経緯
このnoteは、長崎から中央アジアのキルギスに移住した、
テリー 🇰🇬キルギスのまど家族さん(@filmkyrgyz )と
【海外起業をした相方を支えるパートナー目線の実体験をもとに、
noteかけたらおもしろくない?・・・やってみますか?】という
チャレンジで、
毎週リレー形式で、書いていきます。
他にも書いて下さる方、大募集しています♪

こんな生き方もあるんだね〜〜人生、色々な選択肢があるんだね・・・と
少しでも、みなさんの選択肢をひろげることができたら、幸いです。

今回は、私が24歳の時に、夫を追いかけ、
言葉も分からず、知り合いもおらず、
1人で香港移住し、深セン、上海と過ごした中での、
【夫の海外駐在、起業の都合に、巻き込まれながら、
毎日を必死に生きる中で】
自分のパニック障害になった廃人経験や、
中国人の社長秘書としての体験談や失敗談を基に学んだ事を、順をおって、かいていきます。写真おおめでいきますね〜♪ 

それでは、はじまり、はじまり〜〜

2,改めて自己紹介
・元スイマー
・日中をつなぐスタートアップ美容事業のCEO
・中国で無職から起業した人の嫁
・2歳の娘をもつ33歳のオカンこと、
日々、必死にいきてるふみふみと申します。


3,お風呂とお金はないけど、みんないる
中国に至るまで、まず私の個人的な背景を少し。
私が育ったのは、大阪のとある団地。
6畳2間で、教師の父、パート勤務の母。兄、弟の5人暮らし。
家賃は2万8000円。
実は、14歳まで、家に、お風呂がありませんでした。
毎日、銭湯通い。

生まれてから、お誕生日会を開いてもらったことがありません。

ゲーム機も1台も買ってもらったことがありません。
水泳の練習で、旅行に行った記憶もありません。

少し裕福ではない家庭だったかもしれません。

(0歳位)

印象的なエピソードがあります。
私が4歳の頃、何も理解していない兄が、
ともだちのマネをして、
「誕生日会するから、みんな僕の家に来てな!♪♪」と
お友達をありもしない誕生会に誘いました。
それを、事後に知った、母は大激怒。

殴って、兄を叱りました。
その時、殴られる兄を見ながら、やるせなさと、
本当に本当に悲しかったことを覚えています。

幼少時から、幼心に、状況を変えるには、自分でなんとかするしかない、という想いがすりこまれていたのかも。
この【自分でやれることは何でもする】というのは
後の生活で糧になったと思います。

でも、自分も親になった今なら、あの時の父と母が
いかに教育費や水泳、に生活費をあててくれていたのか。厳しいながらも、殴られながらも、愛情たっぷりに育ててくれたことに感謝しています。

(私服がほぼジャージでこれはお気に入りの黒ジャージ。笑。ダサいね。けど、当時はジャージが一番のおしゃれだと疑わなかった‥)

4,色黒ゴリラスイマー、海外へ憧れ、夢やぶれる
大学時代まで、
それまでの人生の全てを、
水泳に捧げてきたといっても過言ではなかった私。
高校時代には、仲間のおかげで、日本一になれました。

大学時代は、京都の同志社大学に進学。
朝4時に起きて、大阪から京都まで始発で移動、
6時半から、水泳の朝練という生活を続けました。

華の女子大生、なんて言葉は、ほど遠く。
色黒に焼け、まるで、ゴリラ。
キャンパスライフを楽しむみんなのことがうらやましかった~~。.
夏は、1シーズンで、600時間ほど、炎天下の下で練習してました。

上下関係も、きびしかったので、
先輩の荷物持ち、ご飯食べるときは、30人全員の先輩の許可をもらう、上下関係がきびしい、そんな環境。

 その頃には、あんなに大好きだった水泳が、本当にきらいになりました。
泳ぎたくない、しんどい、やめたい。
日本一に導いてくれた高校の恩師のところにいって、
「推薦やけど、水泳やめたいです」泣きながら、直訴しにいったけど、

☆おまえの人生なんか、どうでもいい。後に続く後輩の人生も背負ってるねんから、がんばれ

そんな返答でした。
この時から、恩を返す、筋を通すという事と、
自分の卒業後の人生、仲間について真剣に考え始めます。
そして、当時、猛烈に憧れを抱いていた、
海外留学に行きたいという想いも自分の中に封じ込めることになりました。

仲間がいたからこそ、教職免許を取り、最後には、スポーツと学業を両立させ活躍した、という事で、大学から表彰されました。
なんとか乗り越えられた青春でもあります。
ありがとう。

4,語学ダメ、人脈なし、スキルなしの私が1人で香港に渡った理由

2010年の話です。
新卒でメーカーに就職し、働く中で人生の転機が訪れます。
当時、24歳。中国の工場で働いていた彼のプロポーズにはい、
と返事します。

でも、仕事も大好きだったので、すぐに退職、ということはせず、半年間、
新婚遠距離婚 という道を選びました。

そんな中、もし、中国に来ても、一緒には住めないよ、
という事実を知らされます。
理由は、「危険すぎるから」。
「日本人女性が住めるような環境ではない」と。
もしこっちに来ても、香港で一人暮らしする事になる。週に1回だけ、中国の工場から、だんな氏が帰ってくるとう新婚海外週末婚 という形に。

当時、彼が住んでいたのは、中国 広东 东莞という場所でした。
ここで少し、东莞の説明もさせていただきますね。

wiki参照 
★ 东莞(Dongguan)

東莞市の面積は2465平方キロメートルで、ほぼ日本の佐賀県に匹敵する。

産業の発達に伴い出稼ぎ労働者が急増し、それに伴いそれら男性相手の売春女性が増加したため、2010年代に入り「性都」の異名を取るほど性風俗産業が発達した。一説にはその規模は同市のGDPの10%に相当する500億元(約8500億円)にも達すると言われる[2]。その中には周辺地域の高級官僚や関係者が関与しているものも確認されたため、2014年2月に関連施設の一斉摘発が行われ、1000人あまりが逮捕された[3]。この摘発により風俗産業は壊滅し、一般のサービス産業などの客足も落ち込むなど地域経済に大きな打撃が及んだ結果、数10万人が東莞市を去ったとする報道がなされた[4]。 これに対し、「出稼ぎ労働者の性的欲求をどう解消するのか」「女性側でさえ性的欲求のはけ口を求めている」という根本的な問題は全くの手付かずであり、「摘発は単なる一時しのぎにすぎない」との批判もある[2]。また、もともと東莞市はこの摘発より前から、ベトナム、カンボジア、バングラデシュなど、より人件費が安価な国に工場が移転するなど空洞化しており、これに風俗産業の摘発が重なり、経済に広範囲の打撃を受けている

はい。こんな感じの都市でした。
私が渡ったのは、2010年なので。。今は変わってますよ。今は違います。
そこんとこお願いします。

彼の会社は、テレビやDVDを製造する工場勤務をしていました。
広州に3拠点工場があり、
ローカルスタッフ合計1万人ほど。

新卒ではいって、新人研修で,全員が、
中国の工場に行かなければならない、という制度がありました。
彼は、そのまま居残ったみたいです。(けっこうハードな研修すね)
もちろん新卒で入社する日本人の彼らは、中国語もまったくできません。
それに対し、
工場で働く中国のワーカーさんはこんな感じ。

1,年齢14~17歳(若い)
2,毎日工場ラインで6,7時間働きっぱなし。(きつい)
3,しかし、月に月収は2万円位(!!!!) 20000円、ですよ。20000円。
4,重労働している訳です。
5,そして大半は、もっともっと内陸の田舎から出稼ぎに出てきて、実家に仕送りを送っている
6,住んでいる部屋は、二段ベットが4つつめこまれた部屋で寮暮らし(まじできつい)
7,部屋に電気なし。洗濯はバケツで手洗い。

こんな状況でした。

なので、「中国語も出来ない日本の若造が、なにができるんや!給料だけとりやがって!!」という感じで、あたりがけっこうきつかったみたいです。
実際、うつになったり、倒れてる同僚の方も実際みましたね。
そりゃそうですよ。
中国のローカルスタッフからしたら、言葉もできない。使えないくせに、日本人だから、という理由で給料が20倍違う。

当時2010年の工場、生産現場を目の当たりにし、色々衝撃でした。
こんな世界があるんだ、と。
日本でみる【中国(Made in China)大量生産】の裏の【生産の製造最前線】の現場を体感し、衝撃を受けました。

そんな中、私が日本をとびだした理由。
1,苦労するなら、20代の今しかない、と思った。
 人生は、今しかない、と。 
2,今よりも中国のうねりが見えなかった時代。
でも、自分が、40代や50代になって、
  このパワーのある中国を乗り越えていくのはきついかも、と悟った
3,水泳しかしてこなかったので、
  海外に対する憧れがふくれあがっていた。

4,しかし、お金もなかったので、自力で脱出するしかない、と悟った

こんな感じでした。
彼らの生きていく力を目の当たりにし、
日本を出ようと決意しました。

2010年 8月26日、
実家の冷蔵庫に、私は家族宛にこう書き記し、家をでます。

**「成功するまで、戻りません」
**

まーーーーそのあと、いろいろありすぎて、ははは、なんですが。
なんだか、長くなりました。続編は、またかきます!!♪

お読み戴きありがとうございました。^^



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