人のふりみて我がふり直せ。

どうもこんにちは。
最近の若い子達は本当にしっかりしてるなぁと思います。

最近の若い子とかいうと、なんだかとても年をとったような気がしますが、実際、産まれてからの年月という意味では、もうある程度の期間が経ってしまっているので、年をとってしまってはいるのでしょう。

最近はなんだか、年下の方がフラットで、しっかりとした自分を持っているような気がするのです。

仕事にしろプライベートにしろ、あの人はああいう人だと、批判とも取れるようなことを言って、煙たがったり、否定したり。
でも、その内容を紐解くと、自分にも当てはまるよね、ってことばっかりだったりします。

古くてそうなってしまったとか、前時代的な、という意味ではなく、長く生きることで、価値観的なものが凝り固まってきたのかなぁと思ったりします。(自分も含め)

もちろん、尊敬している先輩もいるし、年下でおいおいと思う人もいる。きっと年齢は関係なく、そういう、自分の価値観と当てはまる当てはまらないが、今はたまたま年下の子であてはたまる人が多いと思ったりもします。

つい先日、いつかお会いしてみたいと思っていた人と、たまたまお会いする機会がありました。実績とか、ネットで見る情報は、すごく輝かしく見えて、あ、あの人だ、とすぐわかりました。

直接しっかり話したわけではないけれど、あぁ、こんな風にはなりたくないなと思ったわけです。

憧れのようなものが確かにあったし、すごい人であることには変わりないから、社会的には尊敬の対象の人なのだと思います。ただ、僕の価値観とは合わなかった。それだけ。
それか、色々判断するには短い時間だったのかも知れません。

力をつけたり、知識をつけたり、努力をすることはすごく大切だし、自信につながる。それがみなぎっていて、輝いている人はかっこいいなと思います。

その中に、驕り、が感じられると、急に冷めてしまう。特にこれは、年上の方に思うことが多い気もします。偉そうであるとか、偉そうでないとか、とも、少し違う。驕り。こんなことを書いている僕も偉そうなのかもしれません。

その人のことを下に見ているわけではなく、僕の価値観とは違う、それに尽きるなと思います。

蚊帳の外。
最近知人が、自分は蚊帳の外に感じることが多い、と言っていました。ただ、よくよく聞いてみると、ちっさいちっさい、蚊帳の【内】を、外から覗いて、少し孤独感を感じているだけに思えました。

蚊帳の外、蚊もいるけど、とっても広い。
蚊帳の内で、丸く小さくなって話している内容に、そこまでの価値はあるのだろうか。その話は意外と、なんかあの人嫌だよねぇ、みたいな、学生時代にあるような日常会話のようなものがほとんどだったりするものです。

自分の大切な蚊帳の内さえ、しっかりと守ることができていれば、あとは蚊帳の外に飛び出して、内に引き連れたい人やモノを探す方がいい。

隣にあるけど自分に合わない蚊帳の内を、指を咥えてみているよりも、世界にはたくさん蚊帳の内がある。そんな風に思います。

どうありたいか。
そんなものは永遠のテーマかもしれませんが。

自分を見て。
他人を見て。
世界を見て。

自分の価値観を拾い集めて、広げたり削ったり、形を変えたりしていけばいいのだと思います。 

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