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「天気の子」と「サクリファイス」

この夏、「天気の子」を観た。
新海監督は意図していないのだろうけど、これは、旧ソ連の映画監督タルコフスキーの作品「サクリファイス」と同じ構図だと思った。
片隅で暮らす名もなき人に相対する世界。

「サクリファイス」では、一見関係のない密やかな犠牲によって、核戦争からの破滅が避けられるキリストの受難にも似た世界の均衡を描いた。
犠牲は人知れず遂行され、人々の日常は何事もなく続いていく。
私たちが破滅から逃れられているのは、実は、誰とも知らないひとりの人間が犠牲となってくれているからかもしれない。
その図式に誰も気づかない。
破滅と犠牲と、保たれる均衡。

「天気の子」の主人公も、世界を救うための人柱となるはずだった。
が、その役割から連れ出された。
それによって成り立つはずだった救済は行われない。
止むはずだった雨は、ずっと降り続いている。

「サクリファイス」のアナザーエンドがあるならば「天気の子」が描いたようなものかもしれないと思った。
たとえ均衡が破られても、そこが終末であるとは限らないのだと知った。
それはひとつの感動だった。
調和がひっくり返されても、その先の、またそこから始まることができる世界をみせてもらった気がしたのだ。
崩壊が見えていても「僕たちは大丈夫」だと信じることはできる。
愛にできることがまだあるのだ。

未来はひとつではなく、その選択を、私たちが自分自身で自由にできるのだと思えた。
当たり前をひっくり返すこともできる。

今までにはない希望をみた気がした。

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