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「私はゼブラ」 アザリーン・ヴァンデアフリートオルーミ
木原善彦 訳 白水社エクスリブリス
「私はイシュメール」
作者は1983年生まれ、イラン系アメリカ人女性。
「文学以外の何ものをも愛してはならない」という家訓のホッセイニ家に生まれたゼブラは、5歳の時にフセインが仕掛けた戦争でイランを逃れ、母が亡くなり、父と娘二人でトルコ・スペインへと渡り、最終的にアメリカへ。22歳になった時、娘に「文学武装」させていた父も亡くなる。この時一大決心をする。亡命経路を逆にたどろう、と。文学の鎧で身を固め、旅に出る現代のドン・キホーテ。
という話らしい。
タイトルの原題は「白鯨」の有名な冒頭から取っている。
故郷を追われるとはどういうことか、亡命者、移民であるとはどういうことなのか。ゼブラは歴史が私たち-体、故郷、組織、風景-の中に刻んだ痕跡を追い、自分の物語に形を与えるものとしてあらゆる文学の目録を編纂しようと努力します。歴史の思慮なき蛮行から意味を引き出して、過去の混沌を整理しようとします。ゼブラはその過程で、複数のアイデンティティーを持つ特異な存在へと変貌する。その変貌が鍵となって、心の中に、他人の痛みを理解するスペースが生まれます。
(p364)
最後の「スペースが生まれる」というところで、もともとはそんなスペースなどは存在しない、それは自分で作っていくものだ、ということを感じる。
(2021 03/21)
プロローグ
さて、ネズミたちに尋ねよう。この血の雨の中で、一点の光が何の意味を持つだろうか? 簡単だ。わずかな光でも、それは周囲の闇の深さを教えてくれる。
(p20)
プロローグ読んでみた。文学の記憶を暗記で(これには口承の伝統と、書物が焼かれてからの復興のため)伝えられていくホッセイニ家の末裔ゼブラ。彼女を連れてカスピ海沿いの水田の豊かな「隠れ家」を歩いて回る父、彼女の頭の中の文学伝統を灯台の光に見立てている。
その後、亡命を決意し、イラン・イラク戦争での化学兵器始めとする死者、途中の村で崩れた家の下敷きになって死んだ母、埋葬を父に促すゼブラ、トルコのヴァンの旧市街に到着し、この廃墟となった旧市街を見ろ、ここはオスマン軍によるアルメニア人ホロコーストが行われた場所だ、という箇所など。
(2021 03/28)
「ニューヨークシティ」
トルコ、スペイン経由でアメリカに渡った、父と娘。父は病気で死を待つ運命にあるらしい。
私はベンチから立ち上がり、公園の周囲を囲う手すりの前まで行った。そこから身を乗り出すと、足元を流れる川の水音が聞こえた-さらさら、さらさら。川から聞こえる音は、優れた先人が記した文章が、私の中の果てしない深淵で立てるのと同じ音だった。
(p35)
これまでの父との暗唱する文学修行が、文章の流れる音を自分の内部に聞くところまで行き着いた。語り手ゼブラは、身を投げようとも思った、しかし思い止まる。
(2021 12/20)
そうした中、語り手ゼブラはアメリカの大学等の誘いを全て断るのだが(理由は強がりか何か…)、そうもいってられず、ネルーダの友人?研究者であるモラレスという男に師事することに。
(2021 12/21)
読書などというものは存在しない。再読があるだけだ。
(p42)
モラレスの言葉。
途方もない量の文学を精神に取り込むことによって、私は意識における偉大なる跳躍をする準備が整っていた。残るは臨界点を超えること-私と父が、祖国からの脱出と母の早すぎる死によって正気の敷居を越えたのと同じように。
(p47)
作品とか作者とかを越えて、文学世界の底にあるマグマみたいなのに放り込んで、膨大な過去との共鳴を聴きとる、という姿勢。その時、読み手は自我を捨て、純粋な器と化す。
(2021 12/23)
ダリの時計の国
私は舌の先でその語を転がし、密かにつぶやいてみた。そしてさらによく考えた。ゼブラ。戦時の捕虜のような白黒の縞模様の動物。あらゆる二項対立を拒絶し、紙に印刷されたインクを象徴する動物。思想の殉教者。決まりだ。ついに新しい名前が見つかった。
(p60)
というわけで、ゼブラという名前にしたらしい…この本、そんな感じで、引用してみたい文学観や理論、声明が山ほどと、ハタで見ている読者からすれば虚しいまでの自負感と傲慢とも言える発言が織り交ぜられていて、読書をたびたび妨げる。こうしたこの本を読み進めるには、ゼブラをドン=キホーテになぞらえて、読者はサンチョ・パンサと化するのがいいと思う。
さて、ニューヨークを発って、反転亡命のグランドツアーが始まる。
ダンテとセルバンテスを供に、これまでの亡命の道を逆さに回る。というわけで、まずはバルセロナの章。ここで彼女を待つのは、ルード・ベンボというイタリア人(自発的亡命、ゼブラの亡命ピラミッド理論によると最上層の住人。このバルセロナの章は140ページほど。この章だけでおおよそ1/3。
片手で歴史を消去の穴に放り込みながら、同時に他方の手で、時間の経過とともにいわば狂気に追いやられた事実や記憶の断片を同じ穴からできるだけ救い出すという奇妙なことをずっとやっている国。スペインというのはまるで記憶が元通りに復元可能な家具であるかのように、歴史的記憶の忘却と回復の両方に従事している国だと私は内心で考えた。
(p97)
サルバドール・ダリの木の枝に垂れ下がった時計の絵はそれを意味している、らしい。
(2021 12/27)
折りたたみバルセロナと塩湖に浮かぶ水鳥
紙を折る技をこの国にもたらしたウナムーノがもしもいなかったら、スペイン人は今頃どんなことになっていただろうか、と私は考えた。
(p124)
この本に出てくる文学者の中でも最頻の一人ウナムーノ…って具体的に知識ないのだけれど…この人、文学者であるのと同時に折紙?の名手でもあったらしい。で、ここでバルセロナの折りたたんだ地図を買った(ボルヘスの「帝国の地図」を下敷きにして)「私」は、警句をつけて食料品店の親父にプレゼントする…ドン=キホーテなのかなんなのかわからなくなってくるが、イランという場所は、西欧などより二倍以上も文学(文化も)の厚みがある、そこからこういう見方も出てくるのか、ともちらっと思う。
この小説のキーワードというか鍵の一つは「鳥」だろう。今、アパートに住み着いている前居住人が飼っていたタウートも、プロローグであった「吊された真鴨」も。プロローグ見返したら、p27には塩湖にたくさん浮かんで死んでいた、サダム軍の毒ガスにやられた水鳥の描写もあった。
私は今、凸レンズを通して世界を見ている。そしてその歪んだレンズの向こう側では人々が列を作り、場違いな私のまなざしに気づくことなく騒いでいる、と感じた。
(p149)
(2021 12/28)
自己への言及、他者の存在
まずはルード・ベンボのことから。
それは明らかに、彼の内部が相変わらず仕切られている-頭の中が小箱サイズに区切られている-ことを示していた。
(p184)
いつも率直に語り、凡庸なものを擁護する作家。機械のような頭からあふれ出す非常に繊細な文章を何度も書き直す作家。というのも、彼は何年にもわたって日記に手を入れ続け、ついに引用と改変の挙げ句に自己剽窃にまで至った結果、同じ作家が何人にも膨れ上がり、元のジュゼップ・プラが存在しなくなかった、そんな作家だ。自らがはらむ矛盾をものともしない文学的英雄。
(p195)
文学は死ぬのではなく、死そのものが集まる場所なのだ。
(p202)
自分の中にいる様々な多様なものに耳を傾け、相棒?ルード・ベンボの二重性を捉え、引用が鏡のように無限退却していき相互反応するのを文学の可能性として見る、ゼブラの文学観。しかし、サンチョ・パンサなのかロシナンテなのか、ルード・ベンボを求めるゼブラも確かにいて…
(2021 12/29)
「ジローナ」(1回目)と「アルバニャ」
ジローナはバルセロナの北、カタルーニャの古都らしく、昨日のジュゼップ・プラの町でもあり、またゼブラの父のお気に入りの町でもあるらしい。ゼブラは、バルセロナでベンボがアパートに不定期にやってきたように、突然ベンボのアパート(他3人と共同生活している)を訪れる。
姿を見せるたびに父がそれを蹴散らすと、風に吹かれた回転草のように野放図に、父の体の一部が私の中の砂漠を転がった。父は以前より簡単に息が切れるようだった。徐々にばらばらになっていく父を見ていると、私自身も突然、蒸発して虚空に消えるような-過去のこだまに変わってしまうような-気がした。私の病んだ手が痛んだ。
(p216)
最初は、共同生活者2人(1人は追い出されるように去った)のおかげもあって、順調だった新4人(とタウート(鳥)と犬)生活だったが、やはりベンボとのすれ違いが始まる。タウートがいなくなる。
午前中はクリスタルのように澄んでいた青い空が金属的な紫色へと変わり、冬の太陽の冷たい光に照らされていた。遠くに見えるピレネー山脈は、この紫色の空という壮麗な織物を縫うために並べられた銀の針のようだった。
(p245)
鋭く激しい文学論に隠れがちだけど、自然描写もなかなか。
ゼブラは一人での文学巡礼を再開するためにピレネー山脈の奥、アルバニャという村へ赴く。
“芸術作品の複製は、それがどれだけ完璧なものであっても、一つの要素を欠いている。それはすなわち、時空間の中における現前性、実際にそれが生じた場所における固有の存在感である“
(p254 ベンヤミン「複製技術時代の芸術」(多分))
そうしてノートの中に見つけた文章がこれ。ゼブラは夜部屋の中で、翌日は氷河の末端近くで考えた、そして結論は「文学作品が書かれた場所で再転写すれば現前性が得られる」というもの…この後の「ジローナ」(2回目)で多分実現に向かうのだろう…
そして、夜に隙間風入る農家のベッドで寝転びながらベンヤミンの文章を考えているゼブラの反対側で、ベンヤミン自身がスペイン入国前日の夜、ベッドで考えて、そして自殺する(ポルトボウ)…という対置が考えさせられる。
(2021 12/30)
巡礼の旅は続く(「ジローナ」(2回目))
ルード・ベンボの心の中の構造は、階段や廊下や部屋がいくつも連なる変則的な作りの家のようにこんがらがっていた。彼の感情の浮き沈みなんて誰に読めるだろうか?
(p304)
物語も終盤。文学が書かれた場所で再転写する「文学の巡礼」は思っていたよりも盛況(といっても知り合いと自分いれて7人だけど)で、元酒飲みのゲオルゲなどはゼブラも認める鋭さを持つ。一方、物語自身の進行は、ルード・べンボとの関係に絞られてきているような気がしてきた。
あと、タウートも戻ってきた。ゼブラは母のことを思っていた時に見つかったので、タウートのことを母の分身だと思う。
私は何と言ったらいいのか分からなかった。だから横になったまま、彼の鼓動を聞いていた。それは海の轟きのようだった。宇宙が発する白色雑音。ここでもやはり、部分の総和は全体にならない、と私は思った。必ず残りが出る。少なくとも私はその残余を埋め合わせる努力を続けるのだ、と私は自分に言い聞かせた。
(p312)
「残余の文学」とか誰か言ってませんでしたっけ。ブランショ?
読んでいる自分について反省してみると、何が「残って」いるのか、まずそこを考えて、こういうメモに書き出すことをしなければと思う。
人をちゃんと愛するためには心が希望を抱ける状態になっていなければならないからだ、と私は考えた。相手がこちらの愛情を実感できるまでずっと生きていると信じることが必要だ。でも、この悲惨な世界の条件を考えたとき、どうしてそんなことが期待できるだろう
(p323)
そして、ゼブラに引きずられていたようなルード・べンボが、逆にゼブラを引っ張っていく力を持ち始めてきている。
水の大陸
夜の静寂の中で私は、街を造る煉瓦が息をしているのを感じた。街はすべての死者とともに生きている。過去の街、未来の街のすべてが、いつも既にここにある。(p358)
現実は液体だ。そうでなければ、無でできている、と。
(p359)
しかし、ただの言葉にすぎない石は最大の謎であり、最大の鍵でもある、と私は思った。
(p360)
最終章の「水の大陸」とは地中海を指す。故郷フィレンツェに父親の看病をしにいく(ゼブラは初めはこの理由を嘘だと思うが、徐々に「本当なのかも」と思うようになる。実際はどうだったのだろうか)ルード・ベンボを追って、ジェノヴァ行きの船に乗っている。その船の中、荒れている海の上で、ゼブラが断片的な夢を見続けている、その断片から下の文章3つを引っ張ってみた。
相反するものの自己の中の同時性、さまざまな自己が一人の人間に同居する多様性。まずは繰り返し出てきたここら辺からかな。
(2021 12/31)
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