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「浮かびあがる」 マーガレット・アトウッド

大島かおり 訳  ウイメンズブックス  新水社

図書館で「浮かびあがる」を見てきた。確か長編小説第二作目。父親探し+湖のダイビング。タイトルに目的語がないのが恐さを助長させる。
(2011 03/28)


物語へダイヴィング

 この道路にいままたいるというのが自分でも信じられない。湖ぞいに、くねくねとのたくっている道。白樺が枯れかけている。病気がじわじわと南から這いのぼってきているのだ。
(p3)


書き出し。
行方不明の語り手(女性…名前は明らかにしない)の父親、父親を追うことで、自らの中絶した子供のことも「浮かびあがる」…という作品。アトウッドの長編2作目。
また、自然科学者であったアトウッド自身の父親との、都会と湖との往復の生活も、作品世界に反映されている。あとは、この時期から盛んになったケベックのフランス語問題、アメリカとの関係。上の文章の「南」は明らかにアメリカを指す。

3部構成で、第1部と第3部は語り手の現在、第2部は「出来事からほんのわずか時間的距離をとって過去形を使っています」(p283 訳者あとがきより)。
…いけるかな?
(2022 03/06)

 ふいにからだが震えだした。なぜ道路が変わってしまった? そんなことを彼はさせるべきじゃなかった。ここで回れ右をして帰ってしまいたい。彼になにがあったのか、知りたくなんかない。いまにも声をあげて泣きだしそうだ。ぞっとする図、この連中はどうしていいかわからないだろうし、わたしだってわからない。
(p11-12)


第1部は、語り手含む4人が、何かの映画の素材を撮りつつ、語り手の故郷へ向かっている。
上の文の「彼」は語り手の父親、「この連中」は同行している3人。1人称語りなのに父親を「彼」と言っているのも変だが、すぐ傍にいる仲間を「この連中」と言っているのも、語り手自体がこの場から心を離脱しているからだろう。
語り手は何を期待している? そして何を隠している?
(2022 03/07)

島へ

 わたしたちは柵の向こうとこっちに突っ立って、顔に善意の曲線をはりつけ、口もとを括弧のかたちにほころばせたままだ。
(p20)


今日は第2、3章。だんだんいろいろな情報が提示される。この箇所では、語り手に彼女の父親がいなくなったことを知らせたポール夫妻に会いにきている。こういうコミュニケーション不具合の状況はこの小説の土台になっていきそう。

語り手の回想とともに、語り手一家のことも徐々にわかってくる。ポールの奥さんと語り手の母親との(英語とフランス語との拙い)会話、母親の死の直前の病室、そして語り手の兄が閉じ込めていた?金網スペースを出て湖に落ちた光景…といっても、この事件は語り手が生まれる前のこと。
語り手一家は湖の中の島、隠れた家に住んでいた。そこに語り手と他3人の一行がボートで向かう。

 やがて村は縮んで、目の錯覚めいたものになり、船が岬をひとつまわると、見えなくなる。
(p38)

 半島はわたしが去ったときそのままに島から突き出ていて、家は木のあいだをすかして見てさえ、どこにあるか知っているわたしにすら見えない。カモフラージュは父の機略のひとつだった。
(p39-40)


意図的に隠された場所に向かう。他人の家から目から離れる。それはそのまま精神的な図式にも移行できる。
とにかく、こういう表現と物語の進み方…ぞくぞくする。
(2022 03/08)

人工孵化器の思想

 あれはわたしの夫のものだった。彼がわたしに無理やり押しつけたのだ。おなかのなかで育っていくあいだずっと、わたしは人工孵化器にされている気分だった。わたしに食べさせるものを彼がすべて見計らい、餌のようにあてがった。
(p43)


「侍女の物語」の「オブフレッド」に込められた思想の、発端の感情がここにある。「あれ」というのは、二人の子供のこと。今はここに書かれている通り、夫の元に子供もいるのだが…といっても、別れたのは語り手の方からだった、らしい。語り手の回想に従えば。

 彼は都会とブッシュの地という二つの無名性のあいだを、わたしたちに往き来させた。都会ではアパートばかり暮らし、ブッシュでは、彼は見つけられるかぎり遠くの湖を選んだ。
(p79)


アトウッド自身の父親もこんな生活をしていた、という。ブッシュが無名性の極だ、というのはわかるが、もう一つの極が都会というのは少しだけ意外。確かに匿名性はあるだろうけど、絶対的人数が多いからいろいろ気に触れるのでは、とも思う。でも、例えば東京で暮らしていても、大半からほとんど、その人達を揺れるすすきの穂のようにやり過ごすことは、できる。

語り手は父親が残した書類らしきものを手に取る。仕事の書類かと思っていたが、手の絵がたくさんあって彼の何かが変わったのだ、と思わざるを得ない…

 明日には出ていくからそう感じるのだと、わかっている。あとはもう父は島を自由に使える。狂気は私的なもの。わたしはそれを尊重する。彼がどんなふうに生きていようと、精神病院よりはいい。発つまえに、彼の描いた絵を燃やしてしまおう。あんなものが残っていてはまずい。
(p90-91)


昨日と今日で、ここまで。なんとなくだが、この絵は最後辺りまで燃やされずに残されるのではないか、と予想してしまう。
(2022 03/10)

首という嘘

 いそいでわたしの記憶をたどってみる。アリバイを吟味するように、わたしの人生を。だいじょうぶ、ここを出ていく時期までの記憶は、ぜんぶしっかりしている。ところがそこで止まってしまう。脱線した汽車みたいに、ぱっと軌道が消える。なにもない真っ白。
(p100)


自分自身の印象だと、なんだか逆で、家を出る前の記憶をたどると軌道が消え脱線するような気がするのだが。これは男女差なのか、それとも。もしかしたら、語り手の場合は、そこに何かの囚われた、認めたくない記憶があるのかも。
元々この島に来る時に、案内の人に2日後ボートを手配したのに、もっと長居することにして、一週間後の迎えを依頼する。それに対して、語り手は「彼」を守り「彼」から守ろうとする…「彼」はこの小説内では変数であり浮動するが、ここでは語り手の父親のこと。

そして今日は第2部に入る。
読みの感触がそこまで変わるわけではないけれど、時制は過去になった。

 わたしはべつに胴体と頭のどちらにも反感をもっているわけじゃないが、首だけは困る、頭と胴体がべつであるかのような錯覚をつくりだす。言葉のせいだ。それぞれをべつの単語で呼ぶようにしたのがいけない。もしもミミズかカエルのように頭がじかに肩につながって、あのくびれ、あの嘘がなかったとしたら、自分のからだを見くだして、まるでロボットか人形みたいに操って動かすなんてことはできないだろう。
(p105)


首が「嘘」という表現は楽しい。ミミズやカエルという表現は、全章に釣り餌として出てきたものの呼応。

 病院に閉じこめられ、毛を剃られ、両手を台にしばりつけられる。本人はなにも見せてもらえず、理解したくてもできないようにされてしまう。おまえが産むんじゃない、おれたちが産ませる権力をもっているのだ、と彼らは信じさせたいのだ。
(p111)


語り手=作者(ここでは)の実感がこもった、思想的には作品中の白眉なのかもしれない。

 自分自身の喜びと苦痛の区別がつかないのは、溺れこんでいる証拠だ。わたしがそうしたのだ。
(p117)


溺れると浮かびあがるは対というか、広く取ると同意になるのかというか。
やっと大雑把に言って半分くらい経過。
(2022 03/11)

半分だけの自分


第11、12章
第11章では、ディヴィッドの語る、アメリカとの架空戦争の話。水資源問題でカナダ政府はアメリカに譲歩するが、カナダナショナリストが拒否、アメリカはその頃には分離しているケベックに侵攻…という具合。全くあり得ない話でもないのだろう。
ジョーの結婚申し込みを語り手は断る。別に嫌っているわけではないが、一度の失敗のあと彼女の言葉の中にそれはない。

第12章

 わたしは指を目にぎゅっと押し当てた。闇の澱みのまわりを強烈な色が輪になってかこむ。指をゆるめると、赤がふいに痛みのように戻ってきてひろがった。
(p147-148)


父親が残したスケッチ。これは語り手がそう思った狂気になった父親が描きなぐったものではなく、模写で、先住民の壁画だということが、研究者との手紙からわかる。スケッチの記号と壁に貼った地図の記号も一致する…狂気ではない、とすれば、やはり父親は亡くなった確率が高い…
ということをふまえての、上の文章。全くシチュエーションは違うけど、自分も昔はよくこんなことをしたから、その印象が甦ってくる。この先住民の壁画にも、赤は一番多く出てくる。

 わたしの場合にかぎって、なにかの手ちがいで半分に切れて出てきたのだ。箱に閉じ込められたままのあとの半分。そっちだけが生きることのできる半分だった。いまのわたしはだめなほうの、切り離された臨終期の半分。頭しかない。
(p156)


p105の文章を受けて、感情を切り離して生きている(と感じている)語り手の独白。はたからみると、繊細がゆえに振り回されているように見えるのだが…ジョーのように生きられたらどれだけ楽なのだろう、と感じているのかもしれない。

殺されたサギと…

第13、14章
第13章。釣り、それに先住民の壁画。

 病院で静脈に針を刺されたときは、どんどん落ちていく感じだった。ダイヴィングのように、闇の層からもっと濃い闇の層へと果てしなく沈んでいく。麻酔からさめたとき、一面のうすみどり、それから昼の光が見えたが、なにひとつ思い出せなかった。
(p161)


作品名と関連する箇所。読む前はもっとこの映像が重なり合うのか、と思っていたけど、今のところ、それほどではない。「思い出せなかった」のは麻酔で沈んでいったときの映像だよね?
どうやら近くに別の人達がいる様子。サギが殺され、逆さ吊りにされていた。

第14章。先述の人達か、アメリカ人と会う。

 根が花を咲かせるように、機械はレヴァーだのボタンだの引き金だのを見せびらかす。ちっぽけな丸だの四角だの、目に見えるかたちになった理論そのもの、でもそれを押したらなにが起こるか、前もってはわからない。
(p169)


説明とか読めば前もってわかるだろう、と思うけれど、果たしてその説明が正しいのか、確証はない。人に動作させるように「見せびらか」していながら、動作したら後戻りできない重大なことを引き起こす機構が、機械以外にないか、考えてみる。

水面下の岩絵

第15、16章
第15章
前章では「アメリカ人」と言っていたが、話してみるとどうやら語り手と同じくカナダ人らしい。でも語り手は国籍等がどうであれあのサギを殺したのが彼らであるのならば、彼らは「アメリカ人」だと思っている。そこから動物を殺すことへの罪の連想へつながる。

 わたしの頭の、手の、神経組織のなかで何かが閉じて、わたしの退路を断っている。
(p191)


第16章。今度は一人で岩絵を見つけようとする。水位が上がったとすれば、岩絵は水面下にある。
とデイヴィッドとアンナが言い争いをしている。語り手は遠目で見ながら、語り手自身と「同類」なのはデイヴィッドだと思う。二人とも「いかに愛するかを知らない人間」(p199)。

 家のうら手の木びき台のところにいたわたしの母と父。母が木を、シラカバを押さえ、父が鋸をひく、太陽が木々の枝ごしに二人の髪を明るく照らす。美しかった。
(p202)


ここでの回想は何かを隠しているような気がする。「美しかった」だけではない、彼らもデイヴィッドとアンナのような諍いがあったような、そんな兆候を感じていたのでは、その記憶への通路が遮断されているような、そんな予感。
(2022 03/12)

極限の潜水

第2部終了。第17章から第19章。

 背骨が鞭のようにしなって伸び、頭から水に突っ込む。水を蹴って下降し、湖の層をおくへおくへとかきわけていく。灰色から、もっと濃い灰色へ、さわやかさから冷たさへ。横へ弧を描いてすすむと、岩肌がぼんやり見えてきた。灰色とピンクのまじる褐色。指で触れながら、ぬるぬるする表面を這うカタツムリのようにたどっていく。水で目の焦点がぼやけている。すぐに肺が締めつけられだす。からだをまるめ、それから上昇する。
(p204)


「浮かびあがる」の反対。潜水。潜っていくのは、湖の底だけではないようだ。記憶の底へと。そして語り手はそこで死体を見つける。何かがわかる前に息の限界が来る。水面に戻ると、そこにジョーがいた。
ここからはジョーといる時点と、それから前の彼の子供を堕胎した記憶が交差する、というより入り混じる。

 わたしは受け入れることができなかった。あの切断を、わたしのやった破壊行為を。別の解釈をしたかった。できるかぎりそれをやった。ごまかしのアルバム、パスポートみたいに偽造した記憶。けれど紙の家でもないよりはましだった。もう少しで住みつけそうだった。いや、わたしはいままでずっと、そこで生きてきたのだ。
(p208)


ジョーと前の彼の姿が明滅する。ジョーがしたいというのを断り、その後、デイヴィッドの強引な依頼も拒否する。やがて船が来て、語り手の父親が見つかったという知らせが入る(ここのところの、語り手のいう、デイヴィッドとアンナの罠というのが、自分にはよくわからなかった)、そして「母からの贈り物」という母とまだお腹にいる赤ん坊(生まれる前の語り手自身だという)の絵を見つける。
というところで第2部が終わる。
(2022 03/13)

彼らとの再会は自己遊離の姿


島を出るためのボートが来るが、語り手は逃げて乗らないことを選択する。

 夜半、静けさに目をさます。雨はやんでいる。漆黒の闇、なにも見えない。恐怖が波のように、足音のように、やってくる。恐怖には中心がなく、甲冑のようにわたしを中に閉じこめる。怖がって硬直しているのはわたしの皮膚だ。彼らが入ってきたがっている。窓を、ドアを開けてもらいたがっている。自分ではできないから。
(p253ー254)


第3部、もう一回、自然の中へのダイヴィング。
恐怖が中心なく甲冑のよう、という比喩は巧みだ。甲冑なのは自身の皮膚なのか。
第3部に入っての「彼ら」は父母始めとする死者たち。

 動物は言葉を語る必要がない。自分自身がひとつの語なら、どうして話す必要があるだろう?
(p264)

 背後に彼らの足音が迫る。ブーツが踏みつぶし、言葉がうなり、電子音の信号がツーッ、ツーッととびかい、彼らは数字で話す。理性の声、武器と装甲の重装備がガチャガチャ鳴る。
(p268)


島に捜索隊?の捜索が入る。隠れながらこの人達を見る。ここの表現は特に臨場感ある場面。
そして、語り手は「彼ら」を呼び、「彼ら」を見る。まず最初に母、そして父。こうして見ることのできた母と父であったが、語り手もうすうす気づいているように、両者とも語り手自身が離脱してそれを語り手が見ている、という構造でもあるようだ。

 信頼するとは、拘束しないということ。わたしは苦しくなるほど前へ出たがっている、あれこれと要求したい、疑問をぶつけたい。でもわたしの足はまだ動かない。
(p279)


また別のボートが来る。ポールとジョー。p204の湖へのダイヴィングの時もジョーがいた。そして今回も、自然そのものから浮かびあがった時に、ジョーがいた。
最終ページ、p279で、結局語り手の足は動いたのだろうか。ポールとジョーのボートに乗ったのだろうか。記述がその直前で終わっていること、この語り(手記なのか?)が残っているということは…という外的証拠からの物語論や構造論は一時しまっておいて、先の問い。やはり進んだのでは、お腹の赤ん坊のことを思って、そうしたのでは、と思う。

解説と参考文献から


まずは解説から。

 他者との関係を築くことができず、空虚と孤独のなかを漂うしかなかったことは、私たち自身の人生の物語と呼応しあい、それぞれが内に抱える葛藤とひびきあいます。
(p282)


出発点は、そこ。
(2022 03/14)

続いて「現代作家ガイド5 マーガレット・アトウッド」(彩流社)より

 硬質な、かわいたように感じられる文章が、ページの途中で、ほとんど前触れもなしに、ゆらりと動いて別の画像に変わってしまうのである。
(p141)


「浮かびあがる」を書いていた時、アトウッド自身はカナダから遠く離れた場所にいた、という。確かに…ダイヴィングしていたのは語り手だけではない。作者自身もカナダの記憶にダイヴィングしていたのだ。
(2022 03/15)

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