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「ヘンリー・ジェイムズ傑作選」 ヘンリー・ジェイムズ

行方昭夫 訳  講談社文芸文庫

「モーヴ夫人」


「国際関係もの」(アメリカ人とフランス人との相違)ではあるけれど、心理・性格の微妙な違いを読ませて、意外に?全然難解ではなかった(後期三部作ではないけどね)

 彼女には、注意深い様子で鳩のような眼でななめに視線を走らせながら、ぐっと頭をそらすくせがあった。
(p11)

 みにくいが否定しがたい真実よりも、何か気高い意味があれば、虚構を信じたがる傾向が彼女にはあった。
(p18)


彼女(モーヴ夫人)のそういう気質が上のくせにも現れている、のかな。
さて、話は冷え切って夫(血筋古い貴族の出)が公然と不倫をし、この夫の妹が妻であるモーヴ夫人にも不倫をけしかけるが、モーヴ夫人は拒絶する。
物語の視点人物はモーヴ夫人の同国人(アメリカ人)であるロングモアという青年。このモーヴ夫人の相手となった青年の葛藤が表立っては進むが、半ば惹かれていてもいたこの青年を拒絶することで、何か美しさか気品のようなものが滲み出た夫人に対し、夫も本格的に惹かれるがこっちも拒絶されてしまい、夫は自殺してしまう、というもの。
この作品に対する批判の多くはこの自殺の不自然さを指摘し、訳者も認めるが、伏線を多くジェイムズは用意していたともいう。自分は・・・そこまで不自然には見えないけど・・・
最後にも一つ引用。モーヴ夫人の言葉から。

 ある種の感情は一生つきまとうものと存じます。ある種の幻想は心臓の鼓動と同じく人間の条件です。
(p72~73)


自分の場合、いろいろつきまとい過ぎ(笑)
(2018 06/24)

「五十男の日記」


これも「国際関係もの」で、ここではイギリスーイタリア。五十男はフィレンツェで、昔の自分が恋していた女の娘に恋している青年を見ていろいろお節介を焼き、「自分のようになる前に手を引け」とまで言う。が、その忠告?を無視した青年は無事に結婚生活を送る…というストーリー。五十男が半分揶揄されているような展開だが、ジェイムズ作品中、国際結婚がうまくいくことは実はほとんどない。ジェイムズの視線が五十男中心になっているのは間違いなく…
彼がフィレンツェで見つけた青年は、実は彼のドッペルゲンガーか幻覚だった、と読むのもアリなのではないか…
(2018  07/08)

「嘘つき」


またもや、自分の元恋人を見つける展開。ジェイムズのシミニー(直喩)はなかなか唸らせる巧みさなのですが、それがこの短編の場合、もっと割合高く2ページに一回程度現れる。タイトルの「嘘つき」は、さっき出てきた元恋人の夫の嘘つきというか法螺話がテーマなんだけど、解説先読みすると、嘘つきというものを、西洋社会では日本以上に嫌うという。印象逆なんだけど…
p242付近では芸術というのもある種の嘘を用いているのだ、という展開になっている。
(2018  07/10)

第1章(直喩)

   印刷と余白の取り方ばかり立派なのに、大切な句読点もないページにやや似ているとしても、彼はつやつやした生気のある顔をしている。
(p201)


   ペテン師が稀に見る巧妙さで紳士の真似をしているようでもあり、あるいは、紳士が武器を隠し持ってうろつき廻る趣味を持っているようでもある。
(p202)


   この紳士は口が重くて、婦人がピストルを発射する際に顔をそむけるような、そんな態度で発言するのだった。
(p205)


第2章(嘘つきは芸術家の始まり)

   デイビッド卿は自分の肖像画を、子孫の者が困った時に参照すべき、国土の地図にたとえた。
(p233)


   これが止むを得ずつく嘘であれば、丁度芝居の初日の夜、原作者から貰った無料入場券を持って劇場に現れた人に対してのように、それなりの場所が与えられよう。しかし無用な嘘は入場券なしで現れた客のようなもので、通路に補助席を置いてもらう以上の扱いは受けられないのだ。
(p242)


さて、本編であるが、なかなか盛り上げもうまく面白いのだが、解説に言われなくても視点人物である肖像画家ライアンの嘘つき…というか異常度はかなりのもの。ただジェイムズにしてみれば、芸術家というものはこういう異常心情でもって作品なるものを作り出していくのだ、と言いたいのだろう。それは相手の大佐夫人が問題の肖像画を「傑作だ」と言っていることからもわかる。

そっちのテーマもいいのだが、自分としては大佐の方の嘘つき(法螺吹き)心理の方に関心が向く。こういう「口から出まかせ出放題」という人格はやはり何かの症状なのではないだろうか。裏に出た対人恐怖症とか、子供の頃本当のことを言って酷く怒られたとか…そしてその夫人もその症状に取り込まれつつあるのか。ジェイムズはこれらの謎を全て解き明かそうとはせず、謎は謎のままに取っておく…
(2018  07/15)

「教え子」


ヨーロッパの上流社会に入りたいアメリカ人家庭の末子の家庭教師になった青年が、その家庭に振り回されつつ、「天才」と評されるその男の子に惹かれていく、という話。この男の子と家庭はジェイムズ自身の体験も織り交ぜられており、自転車操業的な家庭も、なんだか半分くらいは暖かな視線で描かれている(ジェイムズ自身の家はかなりの富豪なので、そういうことはなかったらしいが)。
この作品も、夫妻のどちらかとか兄とか、違う視点で描いたらどうなるか面白そう。

あと、経歴読んで、劇作に取り組んで失敗した、とあったけど、どんな失敗だったのだろうか。「もっと人気を得ようと…」とあったけど、どうなんだろう。現在では「ジェイムズ劇作品集」も出版されているらしいから、完全な失敗作ではないとは思うけど…

「ほんもの」


肖像画家ジェイムズ
この本は訳者行方氏の「傑作選」であって、他の人が選べばまた全く別の「傑作選」が出来上がる、そんな気がした。それはどの作家でもそうなんだろうけれど、特にジェイムズについてはそう感じる。要するに、もっと読んでみたくなったのだ。
他の人の読後感みてると「嘘つき」と「教え子」の人気が高いようだけど、自分は二つの「芸術家もの」、「嘘つき」と「ほんもの」が特に好み。次点を選ぶとしたら「五十男」かな。これなどさっき書いた「行方氏チョイス」ものだと思うのだが、いかがか。

さて、その「ほんもの」。これもまた芸術家が肖像画家になっている。きっとジェイムズ自身、肖像画家に親近感を感じているのだろう。内側から描いた小説による肖像画というような。これはまた当時の肖像画家というものがどのようなものか、世俗的な興味を満足させてもくれる。

   わたしには生まれつき実物より表現された物を好む傾向がある。実物の欠点は表現不足になりがちなことだ。わたしは物の外観の方を好んだ。
(p376)


ここなんて、画家の姿を透かしてジェイムズ自身が語ってしまっているかのようだ。
内側から外観にあぶり出してくるものを描いていく「肖像画家」ジェイムズ。小説作品もまた「ほんもの」を描く叙事詩から、市井の人々の心の移り変わっていくさまを描くものに変わっていく。ただ画家ジェイムズは取り残されていく「ほんもの」に一抹の愛惜の念を感じている。そてがこの小説を奥深いものにしている。それは小説が小説である限り離れられない感情なのかもしれない。
(2018  07/23)

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